三島由紀夫のこと
子どものころ、というか中学校や高校までも、私が好きな日本の近代作家と言うと、芥川龍之介と三島由紀夫ぐらいだった。他の作家は嫌いではないまでも、読むといつも少し憂鬱になり孤独になった気がする。思いがけないそこかしこで傷つけられることがあった。どうしたら、この作者の気に入ってもらえるかが、いつもよくわからず、自分はこの人からは嫌われるだろうなあと思った。
外国文学や児童文学ではそんなことはなかった。プロレタリア文学や女流文学も比較的ましだった。まさか自分が人権とかフェミニズムとかに幼いころから染まっていたとは思えないが、それに近いものはあったかもしれない。
自分なりに漠然と考えていたのは、プロレタリア文学の場合、敵味方がはっきりしているから、どうやったら作者に好かれるか嫌われるかがわかりやすいから、読んでいて気が楽なのかなということだった。
作者に好かれるかどうかを気にしながら小説を読むというのも妙な行為だが、それは多分、現実の世界でも私が周囲にどうやったら好かれるのか嫌われるのか、狭い範囲でも広い範囲でもよくわかっていなかったからだろう。小説を読むときも、その居心地悪さが重なっていた。家族も友人たちも先生たちも大人も子どもも皆好きで、でも、その皆に好かれるような生き方が見つからない気がしていた。
多分私が、日本の近代文学、特に男性作家の作品の中に見ていたのは、当時の日本社会そのものだった。戦後も戦前も関係なく、ずっと続いた平凡で健全な普通の暮らしだった。何が一番恐くて不安で不気味だったかと言うと、そこには小さい憎悪や軋轢はあっても、決定的な悪のようなものはなく、許せない敵はおらず、現実がそのままに、点検されることもなく外部や上部から見られることなく、作者の目が何の違和感もなく周囲と一体化していたことである。この世界のルールはこうですとか、私の好みはこうですとか、外部や他者に向かって説明するような姿勢が、そこにはまったくなかった。
こう思い出して書いていても息づまるほど、その感覚は忘れられない。作中人物も作者も私に何の説明もなく誰もがわかりあって自然に生きていて、時に「えっ?」と思うような個人的な好みをいきなり出してきて、それをその普遍的なルールの中にぐたっと混ぜこんでしまう。これは自分の好み、これは社会のルール、これはここのしきたり、これは世界の常識、そういう説明も仕分けもまったくなく、多数なのか正義なのか強者なのか何かそういう安心しきった態度と、そのことにさえまったく気づいていないような、つまり自分を客観的に見ることや、他者や周囲と区別して自分の立場を明確にすることや、そういう努力も、そもそも意識も、日本の近代文学を読んでいて私はまったく感じなかった。
芥川と三島には、それぞれ、そうではないものがあった。彼らの描く世界は現実を描いていても、いつもどこか作り物で、作者と作品世界の間に薄いが強い壁があった。だからこそ私は安心して息がつけた。
それが二人の作者にとって、なぜだったかなどどうでもいい。何が二人にそういう作風をもたらしたのか、それも別にどうでもいい。
ただ、もう死んでこの世にいない芥川とちがって、三島は私と同じ時代を生き、私と同じに変化し発展していた。
私は日本近代文学の中ではプロレタリア文学がまだ受け入れられたと言ったが、それはまあ、ある程度文学を読んでいると、少数派、反逆者、正義派になるのはしかたがないので、その結果ということもあるが、それ以上に先に述べたように、主義主張や党派性が明確な作品は(多分人間でも)、好みがわかりやすいしつきあいやすいという安堵感があって、私にとって社会主義やプロレタリア文学は、とても優しい、安心できる存在だったということもあるのである。
だから、ごく自然にプロレタリア文学だの社会主義だのソ連だののファンになり、そちらに肩入れしてものを見て生きていた。
三島の作品は好きだったが、それとは別に彼が気になりはじめたのは、私自身がそういう左翼や革命家の応援団のような位置で生きていると、たとえば日本近代文学に象徴される日本社会や村社会、保守層やそれと近い層の無視や敵視とはどこかちがう、憧れ、羨望、対抗意識、興味関心のような視線や体熱を、いつも三島のどこかに感じたからである。
私はそれが、いやではなかった。
自分たちが多数だから正義で健康で平凡で普通だとおおらかに信じ切って、世の中も自分も疑いもせず、どっかりと構えて、革命家や左翼など気にもしないで生きている人たちとはちがって、三島は私と、私が支持し共感するものを、意識して、気にして、見つめている。かたときも忘れてしまえず、見守っている。それを確信していられるのは、私にとって喜びだった。
少なくとも、この人だけは動揺させている。不安にさせている。この人もそれを決して不幸とばかりは思っていない。いつも、そう信じていられた。
これは妄想だったろうか。私はそうは思わないが、証明できるものはない。
ただ、三島は、いきなり誰にでも受け入れてもらえそうな親しまれやすい言い方にしてしまえば、「ラ・マンチャの男」が描いたような、現実を否定して、より高い崇高な夢に殉ずる人生への渇望を血肉の中に持っていた人だったということは、ほぼ確信できる。
私自身がそうであるように。それを失ったら生きられないように。
女であり、その他のさまざまな要素や条件を持ちながら、私はそれをどのように自分の中で育て、飼いならし、人に奪われないようにするかを工夫しつつ、大人になり、年老いた。
三島が、左翼になり革命家になる道を選ばず、当時としては(今でも)奇矯で時代錯誤に見えた右翼思想に走り、それを行動で示したこと、それ以前に彼が行った肉体改造などの数々について私は詳しく知らないし、考えてみたこともない。
知らなくてもわかっていた。考えなくても知っていた。
彼が私ととても似た、ほとんど同じ戦いを、私よりはるかに恵まれた能力や環境に基づいて、ずっと激しくくり広げていることを。
それは、私や私の支持するもの(マルクス主義とか社会主義とか)に対する彼自身の対抗意識というだけでなく、一心不乱の回答なのだという感じさえ、受けていた。
彼の自殺のニュースを大学の研究室で友人たちと聞いたときも、その後、教授のへやにかかってきた「学生の声を聞きたい」という新聞記者からの電話取材を受けたときも、私は興奮し衝撃を受けている友人たちや記者にまったく同調する気になれず、「私は全然ショックではありませんが。こうなるような気もしていたし」とコメントした。私自身、自治会活動の中で、どんなに遠く、思いがけないものであれ、死を迎えることはいつでもあると覚悟してもいた。彼が遠くに行ったとは思わなかった。彼を失ったとも思わなかった。先を越されたとも、勝ったとも負けたとも思わなかった。この私の気持ちを誰よりもわかるのは、きっと三島だと思った。
三島の自殺は、文化人や作家たちにも衝撃を与えたようで、川端康成がその直後の都知事選で熱狂的な選挙運動をしたのも、北杜夫がアメリカで狂気のような奇妙な「月乞食」のようなパフォーマンスをしたのも、そのショックからくる影響だという解釈も読んだ。
だがそれも私はどうでもいい。
私の模索や試行の数々は、それからも続いたし、今も続いている。このホームページを作り、「夢の子供」「情あるおのこ」「ぬれぎぬ願望」「ミーハー精神」「テロリストの心」などの文章を書き続けることも、鳩時計文庫で書いた拙い小説も、すべてそのような試みの継続と言っていい。
彼に影響されて変化したものはない。彼の行動や死がどうであれ、私は自分の戦いをやめもしなかったし、変えもしなかった。
ただ、だからこそ、彼は私を見ているだろうと感じる。私のしていることの意味を、他の誰よりもわかるだろうと感じる。他のどんな作家にも、身近な人にも、こんな気持ちは感じない。私たちはたがいを知っている。そのことが、たがいにわかっている。