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私を一人にしておいて(2)

このまんまじゃ、私のことを本当に大切に思ってくれてる人たちを、とまどわせたり困らせたりする可能性もあるので、まあ私の取説の一部としてでも、(1)の書き込みに少し補足しておきたい。ちなみに、早々に二つだけ断っておくと、ここに書くような心境や要望は、あくまで私個人に限ったことで、そうでない人もきっと多いと思うから、くれぐれも一般化しないで下さい。それから、私がここで悪口言ってる発言や行動は思い起こせば若いときには私も多分さんざんして来て、それは棚に上げて書きますから、そこもどうぞご理解の上、いろいろご自分にあてはまっても、決して落ちこんだりされませんように

書き出すともう、いろいろあるんですが、とりあえず二つだけ。

私は死にかけたり死んだりした人のことを嘆いたり懐かしんだり、心配したり会いたがったりする人の心境が根底のところで、どうもわからないんですよ。

もちろん、猫でも人間でも死にかけたり死んだりしたら悲しいし淋しいし苦しくもある。けれど、それは意味のない、しょうもないことだという気持ちが根強くどっかにあります。まあ、もちろん、意味のないこともしょうもないことも、世の中にあっていけないことではなく、必要でさえありますが、それはそれとして、大手をふって公言できない気分がいつもあるのよね私は。

その気分を要約すると、まだごく子どもの時に感じていたことと、ごく最近になってまとまって来たことと、その二つが基本です。

いつからか、思い出せないぐらい小さいときから、お葬式やテレビのニュースや読む本の中で、死んだ人や死にゆく人に対して、ものすごく悲しむ人を見るたびに、いつもどこかで感じていたのは、

「どうしてこんなに、ひとごとみたいに悲しめるんだろう。いったい自分はいつまでも死なないつもりでいるんだろうか」

ということでした。

それから最近、たくさんの愛するものや大切なものを失って、時にはのたうちまわるほど苦しみもして、でもその中でひとりでに確認したのは、

「人が死んだり死にそうになったりしたときに感じる悲しみや苦しみって、どんなものでも結局は、『自分が不便になるのがつらい』ということでしかない」

ということでした。
 お金でもサービスでも知識でも愛情でも、物欲でも性欲でも知識欲でも、最も崇高で気高くて純粋な愛情や喪失感でも、すべては結局自分にとってありがたくて大切で便利なものがなくなった嘆きにすぎず、結局は不満で不便を感じているということでしかない、ということでした。
 もっとこうしてあげたかった、ああしてあげたかったということでさえ、それは自分がしたかったこと、していたかったことがなくなったという不満や不便にすぎない。

そう考えたから楽になったということでもありませんが、結局は私自身の自己への愛情に過ぎないのだ、とどのつまりはどこまでも自分の苦しみに過ぎないのだ、と考えることは、少しは救いになりました。

だから、私や私の死に対して、手放しで心配し悲しむ人を見ていても、「自分のことで困る人」にしか見えません。
 それでも別にいいのですが、それにまったく気づいてない人というのは、やっぱりこちらも困ります。

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カツジ猫