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「メタモルフォーゼの縁側」について

「メタモルフォーゼの縁側」という最近の漫画がある。ふとしたことからボーイズラブのコミックを読み始めた75歳だっけ、私とそんなに年が変わらない老女と、本屋でバイトをしていて、ひそかにボーイズラブコミックも好きな、地味な女子高生が、そのコミックを通して友情を深め合うという、絵も話もとてもいい、ほのぼのと楽しい作品で、人気もかなり高いようだ。
私もつい夢中で読みふけり、手放せないほど読み返したので、これでは仕事ができないと、同い年の親友に読ませようと封筒に入れている状態である。

そのくらいだから、この漫画には大満足だし、これはこれでこのままに続いて行ってほしいのだが、それほどに好きだからこそ、ちょっと口をはさんで見たくなることがある。

この、いかにもおばあさんなのに、とても可愛く魅力的に描かれている(弱々しくとかいうのではなく、したたかというのでもなく、生き生きとスマートで、行動的で、初々しい)老婦人は、男性同士の恋愛物とは知らないで、きれいな絵に惹かれて、BL本を購入する。
夫は数年前に亡くなり、一人暮らしのふとんの中で読み始める前に、昔は「ベルサイユのばら」とか「エースをねらえ!」とか読んだものだけど、と思っているから、いわゆる腐女子の妄想とは無縁に生きてきた人だ。

話の続きが気になって、続編を買い、連載に手をのばし、女子高生がどきどきしながら勧めたハードな男同士のラブシーンもあっさりクリアして、老婦人はファンとして成長して行く。「応援したくなっちゃうの」「親戚の子みたいで」と彼女は女子高生に言う。
淫靡さも後ろめたさもない。先入観がない故に、まっすぐに作品世界を楽しんで没入する彼女には、現実の人生を積み上げて完成させて来ているという自信と明るさがあり、それが女子高生と読者を力づける。その設定は美しく、楽しく、自然だ。

くり返す、これはこれでいい。このまま描いて行ってほしい。たくさんの人に読んでほしいし、こういう世界を実現させてほしい。
どんな意味でも、この作品と、それが築き上げるものの足を引っ張りたくはないと熱望しながら、それでも私はつい気にしてしまう。
こうだったらいいんだけど。
自分もこういう老婦人のふりをしていれば、そう嘘をついたことにはならないんだけど。

いろんな、いや、いくつかの点で、私はこの老婦人に近い。重なる部分も持っている。
ただ、こういう人もいるかもしれないけれど、私は決してこうではない。
BLの存在は私はむろん、前から知っている。その発生の初期から、生み出した基盤も知っていると言ってもいいかもしれない。(「空想の森」の「オタク研究会覚書」を見ていただきたい。)
今は忙しいのもあって、ほとんど読んでいないから、現状がどうなのか詳しいことは何も知らない。

だが、たまたまこの老婦人のように、本屋で表紙の絵にひかれてBL本を73歳の私が買ったとして、それが久しぶりでも初めてでも、とても気に入ってはまったとして、それはきっと「応援したくなっちゃう」「親戚の子みたいで」と素直に平気で、店員の女子高生に言うような気持ちのものではないだろう。

多分、この老婦人と私が若いときや幼いときに会ったとしても、こういう漫画に出会ったときの反応は同じではなかっただろう。
彼女は素直に「素敵」「かわいい」と喜び、私はそれを口には出せなかった気がする。
そもそも私の中に生まれたりうごめいたりするのは、「応援したい」というような健全なものではないだろう。
苦しめたいとか、傷つけたいとか、ほろぼしたいとか、殺したいとか、きっと、ろくなものではあるまい。

もしかして、この老婦人の心の中にも、そんな欲望はあるのだろうか。
それも含めて「応援したい」と、さらっと言っているのなら、すごいと思うし、見習いたい。

こういうところ、いろいろと、空想や妄想やボーイズラブなどの病的あるいは狂的なものもまじった世界は、それを世間にあたたかくさらりと認めてもらうために、相当巧妙で大胆な、問題のすりかえや、ごまかしをする。
それこそ、甘いふわふわの世界と思われている赤毛のアンだってけっこう危険な話だと思うが、それはさておいても、そもそも彼女の根本をなす、あの空想を語りまくるおしゃべり、あれを嫌だという人もいるけれど、小説の中でも読者たちの中でも、多くの人は、あれをそんなに抵抗なく受け入れる。もちろん私もそうだった。

しかし、多分私はアンとその世界が大好きだった幼い頃でも、自分の空想とアンの空想はどこかちがうとわかっていた。
人に語れる空想なんか、私にとっては空想ではない。
それは、病的で、異常で、いやたとえそうでなかったとしても、現実からかけはなれているそれだけで、恥ずかしくて、みっともなくて、人に知られたら死んでしまうようなものだった。私は自分の夢の世界や空想の中味を家族にも友人にも、口にしたことも、ほのめかしたことさえない。そんなことは考えられなかった。あまりに考えられなかったから、かえってアンの行動や発言とさえ、結びつけられなかったのかもしれない。

「メタモルフォーゼの縁側」が、BL好きの老婦人を、あれだけ感じよく優しく世間に受け入れられるかたちで描いているのを見ると、空想好きの少女を同じように無害に愛すべき存在として紹介した、「赤毛のアン」を思い出す。
それは決して嘘ではないのだから、そうやって、BL好きなり空想なりが、多くの人に認められ愛されるのを、私は望むし喜ぶ。

ただ、心のどこかで、子猫と思ってると猛獣だぞ、きれいなちょうちょと思ってると毒蛾だぞ、そういう可能性も少しはほのめかして知らせておいた方が、世間には親切なんじゃないかと思ったりするのだが、こんなのは老婆心というよりはきっと取り越し苦労なんだろう。

 

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カツジ猫