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作家の愛する登場人物

田舎の実家は、もう人に譲っているのだが、ご好意で、庭の一角の物置は私が使っていいことになっている。物置といっても、そこそこ立派な建物で、余った本などをたくさんつめこんで、ソファやテーブルもある、ちょっと快適な空間だ。
久しぶりにそこに帰って、きれいに掃除までしていただいているのにうっとりしたが、時間がなくて、すぐとんぼ返りで戻らなければならなかった。
くやしくて、せめて滞在している気分をちょっとでも味わおうと、書棚から田辺聖子の「姥うかれ」を引っ張り出して、ぱらぱらめくって楽しんでいる内、ふと、このシリーズ大好きなのだが、ラストに近く登場する老紳士だけが、何だか嫌いだったなあと、変な記憶がよみがえった。

主人公の老女、歌子さんは夢見るロマンチストである反面、辛辣で手厳しい。家族も知人も友人もびしばしやり玉に上げて批評する。そんな中、この老紳士だけは、手放しで共感しほめていて、歌子さんか作者かの多分理想の人物だ。
だからなのか、さっぱり面白くない。何よりも歌子さんが、この人の前でだけは、借りてきた猫のように素直で大人しいのが気持ちが悪い。
この紳士が出て来ると、いつも私の目は半分閉じた状態になって、するするとページの上をすべって先に行ってしまう。

でも、この人はまだそんなに登場しないから、そんな視線のスケートもできる。これまた私が相当好きな、アル中探偵マット・スカダーシリーズの場合、主人公の恋人で後に同棲し、あれ結婚もしたのだっけ、元高級売春婦のエレインが私はちっとも好きになれないのだが、何しろヒロインだから、のべつまくなしスカダ―のそばにいるので、目のやり場がない。
解説なんかで見ると、彼女は作者ローレンス・ブロックの愛妻そのもの(売春婦じゃなかったかもしれないが)らしくて、当然作者は彼女にベタぼれで書いているのだろう。

彼女はいろいろ素敵な女性で、会話も行動も魅力的なのだが、何だかいるとがっかりするのは、なぜなんだかわからない。高級売春婦という経歴が私のフェミニズム本能をどこかでどうか刺激するのかというと、別にそういうわけではない。
と、自信を持って言えるのは、以前にスカダ―はジャンという芸術家の女性と恋愛し同棲していたことがあって、私はこの人も登場した時からなーんか嫌いで、二人がくっついた時にはあーあとがっかりした。ジャンだって、いい人で魅力的で、エレインもそうだが、スカダ―にべたべたしていたわけでもない。それでも何だか、つまらなかった。

こういうのは、嫉妬なのかなあと思わないでもない。自分の大好きな主人公が誰より愛してくっつく相手は、見てても楽しいものじゃない(のは私だけかしら)。だからまあ、赤毛のアンの相手のギルバートも、嫌いじゃないまでも、とことん、しんそこ、どうでもいいという感じしかない(のは私だけかしら)。

ただ、もしかしたら、主人公というより、作者が好きで自分を反映させたり、理想化したりしている人物が、おしなべて私は苦手なのかもしれない。
「赤毛のアン」の場合は、「小さいエリザベス」とか、ポール・アービングとか、ミス・ラベンダーとか、ほめちぎられてばかりいる人物が、とにかく退屈でつまらなかった。ミス・ラベンダーなど、後にフェミニズムの観点から、ああいう人を描くのは大したものだと評価はするようになったけど、やっぱり魅力は感じなかった。ちなみに、アンの友人たちは皆好きだし、特にフィリパ・ゴードンは大好き、ダイアナ・バーリーも好きだ。マリラやマシュウも、リンドおばさんたち中年夫人も皆好きだ。

橋本治の「桃尻娘」シリーズだと、玲奈ちゃんは好き、醒ヶ井さんは大好きなのだが、木川田君は何だか食指が動かないし、磯貝君の場合は、作者が好きなんだろうなと思った時点で何となく冷めた。
要するに、私は作者が肩入れし、贔屓している人物はだめなのじゃないかという気がしているのだが、もしかしたら、ひょっとしたら、私の側の問題だけじゃなくて、作者が好きになってしまうと、作中人物というものは魅力的にならないってことがあるのだろうか?

ドリトル先生シリーズでは月の巨人が嫌い。スタビンズ少年がほめちぎると、ドリトル先生も嫌いになりそうになる。シャーロック・ホームズシリーズでは当然のこと、アイリーン・アドラーが嫌い。こうなると、ほんとに嫉妬と区別がつかない。

「風と共に去りぬ」で私はメラニーとレットが大好きだったが、あれはスカーレットが終始めちゃくちゃに二人を批判していたからだろうか。そして当然アシュレーは、どこがいいのかわからなかったが、あれはひょっとしたら作者の確信犯だったのか、難しいところだ。

いやつまり、これは、自分が小説を書くときのことも考えて、つい気になるのだが、いろんな小説を読んでいて、登場人物の誰かをもろ好きでたまらなくて書いている作者と、誰が好きなのかまったくわからない、もしかしたら、そんな人はいないのかもしれない作者というのが、私の場合は読んでいて、何となくわかる。
そして、前者の場合は、えー、あんたのマスターベーションにつきあわされるのかあと思ってうんざりするのと、わー、やめてもう、見ていて恥ずかしいと思うのとで、少しだけだが、読むのが苦になる。

まあこれがもう、二次創作とか腐女子の作品とかなると、あからさまなだけ開き直ってさわやかでもあるのだが、そこまで割り切って読めない、普通の小説の場合は、作者にはどこまでそれが許されるのか、私にはよくわからない。それこそ私は、このホームページで公開している自分の小説は全部、ある種の腐女子の二次創作でしかないと思うし、立派な小説を書こうと言うより、自分のそういう腐女子的欲求を満たすだか解放するだかのためだけに書いている気がしている。だが一方でそれが、一見普通の小説のような装いをするのは、安全策で防衛手段のつもりだが、それにしては手が込みすぎて行き過ぎてる気もするし、結局中途半端だなといつもどこかで感じている。

そして、そういうのがまったくわからない後者のような場合でも、私にわからないだけなのか、見る人が見ればわかるのか、はたまた、もしかして世の中には、本当にそういう、好きで入れ込んでしまう登場人物が誰一人いなくても小説を書ける作家というのは、どのくらいいるのだろうかと気になったりする。

ずっと前に何かで読んだのだが、映画「羊たちの沈黙」の原作者は、主演のジョディ・フォスターにほれぬいてしまって、彼女にこんなことさせたいあんなことさせたいと思うばっかりのような次作を書いたということだった。本当にそうかどうかは知らないし、このまとめ方も正確かどうかわからないが、そして私はジョディ・フォスターも「羊たちの沈黙」も(わりと皆から「好きでしょう」と言われるのがふしぎなくらい)嫌いではないまでも、別にどうでもいいのだが、そういう感じで小説を書くことって、作者にはあるだろうなというのはわかる。
もちろん、それは許されるだろう。
でもやっぱり、読んでいて私がそれを感じたら、どこか気持ちが悪いだろう。

かと言って、たとえば私がそういう「好み」をまったく感じない作家というと、とっさに思いつくのでは林真理子、江國香織などだが、それだと、これまた、何となく物足りないし面白くないし違和感があるし何だか恐い(笑)。
また三浦しをんには「好み」を感じるのだが、それをまったく消してか隠してか彼女が書いた小説は、これまた何となく物足りないし、安物をつかまされた気になる。

小説に限らず映画でも絵画でも何でもそうだが、こういう、ある種、よこしまでわいせつな「ミーハー精神」は作家の中にどれだけ存在するのだろう?
それを、どのようなかたちで活かせば、人を魅了し自分も満足する作品を生むことができるのだろう?

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カツジ猫