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「水の王子」通信(105)

ヒルコとは私にとって何だったのかと言いますと、結局、空想とか理論とか、そういったものなのかなと思います。ハヤオが肉体ならヒルコは精神と言ってもいい。

肉体が蝕まれたり破壊されたり痛めつけられたりするのは、これでもけっこう病弱だった幼いころから、ずっと私の潜在的な恐怖でした。だからこそ、戦争を初めとした他者への肉体の攻撃や破壊も私は激しく嫌悪しました。

ですが、ある意味もっと恐かったのは、女性や人間についての私の好みや望みがどれもこれも、ともすれば「不自然」「ありえない」「異常」というかたちで、否定され存在を認められず、「あってはならないもの」「あるはずがないもの」として黙殺抹殺されそうなことでした。

子どものころから、いっちばん嫌だったのは、ドラマや映画でお題目のようにくり返される「人は一人では生きられない」というフレーズでした。孤独が好きで一人でいるときがいつも一番幸福だった私にとって、それは「おまえは生きていてはいけない」という宣告にもひとしかったのです。

女性については「男に守ってもらいたいもの」をはじめとした、今ではとっくに多くが否定されている定義や決めつけが、毎日毎秒テレビやラジオや新聞や週刊誌からたれ流されて、真綿のように私の首をしめつづけました。
せめてもの救いは、こうした決めつけや定義が、現実の私の周囲の家族や学校生活ではほとんどなく、たとえば「女は生徒会の副会長にしかなれない」といった制度としてはあっても、私個人に向けられることはまずなかったことです。私は一人っ子だったし、学校でもわりと自然に特別扱いされていました。家では労働力として農作業をするのが普通だった家庭の子どもの中で、読書や勉強に専念できた私は当然成績はよかったし、比較的豊かな家で服装も持ち物も「皆とちがってあたりまえ」のように見られていたし、それで受け入れられていました。友人や周囲に嫌われないよう、努力はしていましたが、自分が異質な存在と知っていただけに、クラスの中で、どんな子どもも私は攻撃しなかったし、差別もしなかったし、周囲の友人に格差をつけなかった。そのためには、いつも頂点にいなければならないという意識は常にあったけれど、それは支配するためではなく、誰も切り捨てないためで、それが私の自衛でした。

それでも一般的な言説や論調としての攻撃は常に感じていました。だからこそ、「一人でいたい」「愛する者を守りたい」という私の根幹をなす意識が、「それは人間としておかしい」「女として不自然」「どこかで無理をしている」「嘘をついている」というかたちで、直接ではなく一般的な言説として否定されつづける中、私は常に「自分は無理をしているか?」「この好みや傾向は、何かをかくしたりかばったりしている結果の不自然なゆがみか?」と、いつも自分を点検しつづけていました。そして毎回「自分は欠点も弱点も多い人間だが、それをかくすために何かをゆがめているような、そんな部分はない」と結論を出しては、やっと自分のあるべき姿を保っていました。

ヒルコを消さないために。育てるために。そのために健全であり、まっとうであり、勤勉であり、正しくあり謙虚であり優しく強くなければならない。いつもそう心がけて来ました。

アメノウズメの鏡の光が何なのかは知りません。でも彼女の脅し、「おまえは幻。どこにも実在しない、消えてしまうもの」という言葉に、おののき悲しむ人がいたら、その人をこそ一番私は憎むかもしれない。頼りにならない同志として。あてにならない仲間として。敵に対して備えも覚悟もない、邪魔で足手まといな存在として。ヒルコの勝利を信じ、かたときも疑わず、この小説を読み上げて下さる読者しか、私は信じられないのです。家族でも、親友でも、愛する人でさえも。

かつて「私のために戦うな」という本の中の「夢の子ども」という一章で、私は今、現実に存在しないものにかけて、狂気と紙一重に生きて突っ走る人たちこそが、未来を築き、新しい世界を開くという確信に近い、予感について触れました。このことに反する作品を一度でも作った作家を私は決して許さないし認めません。「F式蘭丸」を描いた大島弓子さんも、「関白宣言」を歌ったさだまさしさんも。それを否定し、上書きして消すような作品を、その後星の数ほど作っても、さげすみしか感じられません。

このように、多分死ぬまで私の中で、ヒルコはきっと容赦がない。ハヤオに支えられ、争い続けながら、彼はずっとこのままでしょう。多分、続編ではもうあまり登場しないかしれませんが、彼は常に私のどこかに住みつづけます。

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カツジ猫