「水の王子」通信(110)
「水の王子 山が」第四回
【作者の説明】
ナカツクニの村の復興にともなって、新しい課題もいろいろと生まれて来ます。これもその一つです。
前回があまり長かったので、今回はこの章は、いくつかに分けますね。
それにしても、私の物語では「何もこれといった特徴がない」ことになってるコトシロヌシのイラストは描きにくいのか描きやすいのか、ようわからんなあ(笑)。とりあえず神話では鳥と関わりが多そうな神なので、肩に一羽とまらせときました。
【コトシロヌシの独白】
入江にわにざめがいなくなったことには私たちは、わりとすぐに慣れた。それには二つの理由があった。
ひとつは何と言っても自由に海に出られるようになったことだ。そんな時代を知っている者はもうほとんどいなかったが、いつでも海に入って行けて、いつでも舟を出せることは、まるで夢のような自由な楽しさだった。
来る日も来る日も女たちは子どもを連れて波打ち際で水遊びにたわむれた。夏も次第に終わりかけて波が大きく水が冷たくなって来たが、それでもなかなか浜辺に人は減らなかった。
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もう少し年かさの若者や娘は、岬の下のより深い岩場に行って、もぐって遊んだ。澄んだ水の中で矢のように動き回る魚、珍しいかたちの岩、ゆらめく海草、そういったもののすべてが彼らを楽しませ、時を忘れさせた。激しい夕立が海面をたたき、それを下から見るのもわくわくするながめだった。
雨が上がると虹が沖にかかる。日が暮れると青白い月が入り江全体を妖しく照らす。これまでは浜辺から見るだけだった風景のただ中に身をひたす喜びに、多くの村人が酔っていた。
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何か危険なものが沖から来るということを誰も心配しなかったのだろうか。
それを誰も考えなかったのは、この状態を人々が受け入れたもうひとつの理由だ。草原にとどまっていたタカマガハラの白い船と、まもなくそれが飛び去ってからも、しばしば村を訪れてあちこちに姿を見せていた、白い衣の大柄な女性アマテラスの存在だ。
彼女が特に何かしたわけではない。いつものんびりのびやかで、人々と談笑したり、浜辺を歩いていたりした。それでもそこには圧倒的に人を安らがせる何かがあった。
わにざめが彼女の化身で、村が山に埋もれて消えたとき、彼女が元の姿に戻ったのだということに気づいた者がどれだけいたのか。何となくそれはわかっていただろうが、季節が変わって一日が過ぎるように、皆がふつうに受け入れていた、それを気にするひまはなかったというべきだったかもしれない。
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新しい家を建て、畑を作り直すのに皆が忙しかった。タカマガハラの人々が助けてくれた。しかし、昔を知っている者の中には、家よりも先に船を作って海に乗り出す者もいた。その中心となったのはサルタヒコで、水を得た魚のように、生き生きと元気で若がえっていた。
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その一方で、山がなくなったことには誰もなかなかなじめなかった。朝、目がさめたり、海を見ていてふとふり向いたりしたときに、そこにいつもあった見慣れた山がなく、ぽっかりと青空やくもり空だけが広がっているのに、いつも驚きを感じた。
山だけではない。それを包んでいた森も消えた。がれきや倒木のつもった低い丘の向こうにはどこまでもはるかな草原だけが広がる。それはどこか海の底にいるような感じでもあった。
※
いつも山の上に一人で住んでいた私のことを心配してくれる人もいたが、私がわりと平気だったのは、山頂にいたからこそ、山そのものを見上げることが私にはなく、その風景を見ることが人より少なかったからかもしれない。私が平気でいたせいか、次第に誰も気にしなくなったようだった。私も父のオオクニヌシや母のスセリの新しい家を建てる手伝いなどで毎日忙しく、山をなつかしむゆとりはなかった。
岬の根もとには、山が崩れて村が消えたあと、それまでなかった大きな湖ができていた。前に家のあったあたりということもあってか、その湖のそばに父母は前よりずっと小さい新しい家を建てた。年をとると、あちこち歩き回るのがめんどうだから、このくらいの広さの方がいいと二人は喜んでいた。
家ができるとすぐに父母はヌナカワヒメの洞窟で他のけが人といっしょに治療をうけていたタカヒコネをひきとった。老人のスクナビコもいたから、四人で住むと家はそこそこにぎやかで、ちょうど家族のようだった。私が入るとさすがに狭そうだったので、私はその近くの川べりに小さい家を建てて、一人暮らしをするようになった。(続く)