「水の王子」通信(134)
「水の王子 山が」第二十七回
【おかしな獣】
オオクニヌシが家に入って行ったとき、へやの中は何だかおかしな雰囲気だった。つぼやかごが、いくつかひっくり返り、ううふうう、ふううと、けんのんなうなり声がしている。スセリはこちらに背を向けて、その声の主を抱きながら、小声でやさしくなだめるように何かを話しかけているが、どこか少し怒っているような気配が、こわばった肩のあたりに感じられた。
タカヒコネは所在なさそうに突っ立って、スクナビコがその手に布をまいて何か傷の手当てをしているようだ。いつものとぼけた笑いをこらえているような顔だが、たしかに気づかって心配しているようでもあって、これも見慣れぬ表情だった。タカヒコネはどことなく間の悪そうな、そのくせちょっと怒ったような目をしていて、これまた彼には珍しかった。
「皆、どうした?」荷物をへやのすみにおきながら、オオクニヌシは三人を見回して誰にともなく声をかけた。
※
スセリがふり向き、「あら、お帰りなさい」と、うれしそうだが、どこか上の空で言った。「旅はどうでした? 何か食べる?」
「いや、ツクヨミの店で食事はすませて来たから。その動物は何なんだい?」
「サルタヒコが今朝持って来たの。どこかの港で、魚とひきかえに手に入れたのですって」
「うちで飼うのか?」
「まだ決めてないの。わりとおとなしいし、うちでくつろいでいたし、慣れてくれそうだったんだけど、タカヒコネがおどかして」
「まあ、それはおたがいさまじゃろうがな」スクナビコがタカヒコネの手に巻いた布のはしを、しっかり結びながら言った。「そう深くかまれてはおらんし、多分大丈夫とは思うがな。おまえさん、まだ完全に治っておらんし、遠い国から来たけものじゃから、どんな毒を持っとるかわからんし、用心はした方がいい」
「かすり傷です。大したことじゃありませんよ」タカヒコネはそっけなく答えた。「心配かけてすみません」
「よいよい、気にせんでも。ありゃ、しかし、ちょっとしもうた」スクナビコは、はげ頭を平手でぴしゃっとたたき、かくしの薬袋をさぐった。「あまり使わん薬じゃから、つい残り少なくなっとったのを忘れとった。薬草をとって来んといかんな」
「おれが行きます」タカヒコネは布をまいてない方の手をさし出した。「草の残りがあったら見せて下さい」
「これは枯れとるが、まあ見りゃわかるじゃろ」スクナビコは小さな草のたばをタカヒコネに渡した。「岬に行く道の途中の、古い大きな岩のあたりに生えとるよ」
「いっしょに行こう」オオクニヌシが言った。「二人でさがした方が早い。スセリ、荷物の中にツクヨミの店でもらってきた食べものが少しあるよ。その動物の気に入るものがあるかもしれん」
「そうね」
スセリが近づくと抱かれたけものはオオクニヌシを見上げて目を光らせたが、彼が指を出すと、においをかいで、なめてから、おとなしくなった。
「人なつこいのよ」スセリが言った。「顔つきはあまりよくないけど」
※
タカヒコネは先に立って歩きながら、やっぱりどこか不きげんそうだった。オオクニヌシは声をかけた。
「いったい、何があったんだね?」
「そりゃまあ、おれが悪いんだけど」タカヒコネはしぶしぶ言った。「あいつが、あのへやのまん中で、まん丸くなって寝ていたから」
「まあ、あそこは日当たりもいいしな。くつろいでいたんだろうさ」
「連れて来られたばっかりなんですよ。おれもスクナビコもまだ見てなくて、あいつがいるってことも知らなかったんです。あっという間によくあんなにくつろげるもんだ。知らない家で」
「長旅で疲れていたんだろうよ」
タカヒコネは吐息をついた。「オオクニヌシって、やさしいなあ」
オオクニヌシは笑いをかみ殺していた。「君はそれで腹を立てて、おどかしたのかね? 大人気ないぞ」
「ちがいますったら。ただ上からつかんだだけです。そうしたらあいつ、ものすごい声でわめいて、おれにかみついて、あたりのものをひっくり返して、スセリもスクナビコもびっくりしてかけつけて来て」彼はきまり悪そうにつけ加えた。「おれ、帽子と思ったんですよ」
「帽子? ああ、君がよくかぶってる毛皮の帽子か」オオクニヌシは声をあげた。「そうか、あのけものが何かに似てるとずっと思っていたんだよ。君の帽子にそっくりだな」
「そうでしょう?」タカヒコネはふり向いて、訴えるような目でオオクニヌシを見、オオクニヌシは危うく笑いをひっこめるのに間に合った。「おれ、変だなとは思ったんですよ。たしか今朝はかぶってなくて、寝台の横の箱の中に入れたはずだったから。それがあそこに落ちてるなんて。だからとっさに拾い上げようとして上からつかんだら、変にあったかくて、もぞっと動いて、こっちが叫ぶとこでしたよ。だいたい何であいつは、あんなに帽子そっくりに丸まって寝なきゃならないんですか。ほんとに、人をバカにしやがって」
オオクニヌシはとうとう声をあげて笑った。「そんなことか。スセリもあんなに怒らなくていいのにな」
「かけつけて来たときは、そんなに怒ってなかったんです。そりゃ、おれよりも、まずあいつにかけよったのは、ちょっとムカついたけど、そのかわりにスクナビコがものすごく心配そうにおれにかまって来たのにもびっくりしたけど」タカヒコネはしゃべり続けた。「おれが帽子のこと話したら二人とも笑って、それっきりになるところだったんだけど」
「まだ何かあったのか?」
「ああ、そこはおれがバカだったんです。あのけものがスセリの腕の中でぬくぬくいごこちよさそうで、それでおれをにらんでうなってやがるのが腹たってしょうがなくて、つい言っちゃったんだ。食ったらうまいのかな、って」
「なるほどな」
「それだけならよかったんだろうけど、スクナビコがすまして、見たところ毛ばっかりだから大して食うところもあるまいよ、って。それでスセリは、二人とも何てこと言うの、ってそれっきり口もきいてくれなくなってたところに、あなたが帰ってきたんです」
※
「まあ、君もわかってるだろうが、スセリはなあ」オオクニヌシはなぐさめた。「自分が守ってやらなきゃならない弱いものが目の前にくると、全身全霊うちこんでかわいがって、やさしくするからなあ」
「おれのことも、きっとそうだったんですね」
「そこまでぐれるかね、タカヒコネ」
「いいんです。わかりましたよ。おれはあの目つきの悪いけものに完全に負けたってことだ」
言いながらタカヒコネも、どことなく笑いそうになっているのに気がついて、オオクニヌシは愉快そうな目をした。
「あ、この岩のあたりですかね」タカヒコネがあたりを見回す。
二人は青と紫の小さな花が咲いている草の茂みの前にしゃがみこんだ。
「前にもスクナビコといっしょに取りに来たことあるんですけど」タカヒコネは手にした枯れ草のたばと、目の前の草を見比べた。「全然もう覚えてないなあ。これですかね。葉の形は同じに見える」
「しかし茎の分れ方は、こっちの方が似ているぞ」
「花の色はもっと紫っぽかったようなんですけどねえ」
二人はしばらく、ああでもないこうでもないと言いあったあげく、似たものは全部とって行くことにして、持ってきたかごの中にいくつかの草をつめこんだ。
ちぎられた草の青臭い香りが二人を包んだ。海鳥が背後でやかましく鳴きかわしている。
「君ががれきの下で私に話してくれたことだが」オオクニヌシがさりげなく言った。
タカヒコネが、けげんそうにオオクニヌシを見る。
「ちょっとだけ、私に嘘をついたろう?」オオクニヌシは立ち上がりながら、からかうように続けた。「息子の死んだ時のことで」
「え?」
「村に行けとか私に会えとか言うひまは彼にはなかったんじゃないか? 何もわからないまま、闇の中でいきなり殺されたんだろうから」
タカヒコネは目をそらせた。そしてうなずいた。
「ええ、その時じゃなくて、前に言ってたんです。というか、わりとしょっちゅう」
「もうひとつ、金をめぐるしょうもないごたごたで殺したんでもないな?」
タカヒコネはうつむいたが、すぐ顔を上げた。
「都に行かれたんですね?」
「ああ。スサノオが君によろしくと言っていた」
「彼は」タカヒコネは口ごもった。「どんな風でしたか?」
「もう引退して、一人でひっそり暮らしていたよ。孤独で質素な暮らしだったが、彼は満足していたし、不幸そうではなかったな」オオクニヌシは明るく答えた。「彼が気にしていたのは君のことだけだったようだよ。幸せになってほしいと言っていた」
タカヒコネはちょっと淋しそうに笑った。「そうですか」
「私も同じだと言っておいた」オオクニヌシは手の土をはたいた。「さあ、このぐらいつめば、もう十分だろう。そのかごをとってくれ」
タカヒコネは黙って草のつまったかごを持ち上げてオオクニヌシに渡しながら、オオクニヌシのさし出したもう一方の手につかまって立ち上がった。