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「水の王子」通信(135)

「水の王子  山が」第二十七回

【穏やかな日々】

 湖を渡ってくる風がうすら寒い。タカヒコネは泥のついた手をちょっとこすり合わせて息を吐きかけると、かなりつるの伸びてきた野菜をよけながら、柵のこわれた部分をひもでしばり直していた。湖のほとりにスセリが作った、この小さい畑からは、オオクニヌシ一家が食べる程度の野菜はとれるようになっていたが、キツネや猿がやって来て、時々柵をこわしたり、畝をほり返したりして行く。あまり殺してはだめよとスセリは言うのだが、イノシシでも来はじめたら、そうも言ってはいられまい。
 おだやかな日々が流れていた。オオクニヌシは都の話はあれきりしようとしなかったし、スセリもまたふつうにやさしくなった。ただ、あのけものだけは、あいかわらずタカヒコネに敵意を燃やしていて、目を合わせるとうなって怒って、近づこうとはしなかった。このごろではスセリもそれを面白がっているようだ。
 満月の夜、山がくずれてなくなって以来、初めての祭りが浜辺で催された。昔に比べて、草原から訪れる人は少なかったし、出店も舞台もなかったが、かわりにサルタヒコの大船をはじめとした大小さまざまの船が浜辺にずらりと並び、異国の港から運ばれたさまざまの品物や、山のような魚がにぎやかに取り引きされて、かがり火の回りでの人の輪は、オオクニヌシのクマ踊りで、最高潮の盛り上がりを見せた。
 タカマガハラから来た白い船も近くの草原にとまり、兵士たちが警護を引き受けてくれて見回りながら、自分たちも食べものをつまんだり踊りに加わったりして、適当に楽しんでいた。
     ※
 タカヒコネはツクヨミとイワナガヒメが浜辺に出した食べものと酒の店を手伝っていた。コノハナサクヤもいっしょだったのだが、途中から彼女は、アメノウズメと岬のはしに新しく建てる灯台を、どんなかたちにするか相談するのに夢中になって、そこにホオリとホデリまで加わって、打ち合わせに熱中しはじめ、店どころではなくなったものだから、コトシロヌシとタカヒコネがせっせと料理を作るはめになった。ニニギはどこに行ったんだなどと二人は口にしなかった。遠くから響いてくる竪琴の音と澄んだ歌声は、彼が皆に囲まれて得意な歌を披露しているのがわかりすぎるほどよくわかった。
 タカヒコとタカヒメの兄妹も警護と称して、楽しそうに人々の間を飛び回っている。
 「エビと貝がもう品切れだよ」コトシロヌシがぼやいた。
 「いいさ、魚が新しいから、どんどん切って出しとけば何とかなるって」タカヒコネが答える。
 「お二人さん、適当に休めよ」岩に座って酒の杯をすすりながら、ツクヨミがのんきに声をかける。
 「凧も花火も何もないってのも悪くないわね」イワナガヒメがなべをかきまわしながら、空を見上げた。「月と星のきれいなのが目立っていいわ。ところでスセリは今日は来ないの?」
 「誰もいないと、あのけものが淋しがるからってさ」タカヒコネがうんざりしたように肩をすくめた。
 「スクナビコがいるだろうに」
 「ヌナカワヒメの手伝いで、病人やけが人の世話しに洞穴に行ってるから」タカヒコネは答えた。「それに、どっちみちスセリは、おれやスクナビコのこと、どっかで信用してないもんな。あのけものを殺して食っちまうんじゃないかって」
 「つかまえて来たら、いつでも料理してやるぞ」ツクヨミが物騒なことを請け負う。
 「食べるかよ、あんなまずそうなもん」タカヒコネは舌打ちした。
 「だいだい、けものけものって、まだ名前もつけてないのか」コトシロヌシが聞く。
 「スセリは、いよいようちにおいとくか決まってからちゃんと名前をつけるとさ」タカヒコネは吐き捨てた。「もういっそ、キノマタとでも呼んでやろうかな」
 ツクヨミとイワナガヒメは苦笑いしたが、コトシロヌシはちょっと厳しい顔になった。「エビはもうありません」と一瞬笑顔に戻って客に断ってから、すぐまた眉をひそめてタカヒコネに向き直り、「やめとけよ」と注意した。
 「何が?」タカヒコネはきょとんとする。
     ※
 コトシロヌシは吐息をついた。「おまえ、ときどきだけど、ニニギ以上に無神経なところがあるぞ」と彼は言った。「わからないのか、おやじが今もキノマタのこと忘れてないし、どっかでずっと気にしてるのを」
 「え? そうかなあ」
 「まあいいまあいい、気にしなくても」コトシロヌシは手をふった。「ただとりあえず言っとくと、よっぽどのことがない限り、キノマタのことをおやじの前で口にするのはやめとけよ」
 「うん」タカヒコネは、まだよくのみこめない顔でうなずいた。
 かがり火がどっとまた大きく崩れて、火花が星のように夜空に散り、人々の中から歓声があがっている。
 こうこうと海上に輝く月が、それを静かに見下ろしていた。
  

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