「水の王子」通信(136)
「水の王子 山が」第二十八回
【魚の影】
「うまいじゃないか」からかうような声がかかって、コトシロヌシの祭りの日のことばを思い出してみていたタカヒコネは、はっとしてふりあおぎながら、とびきりの明るい笑顔を作った。
「おれも都じゃよく、庭の柵を作ったもんだよ」ツクヨミは気さくにタカヒコネのそばにしゃがみこんだ。「あそこは、どこの家の前にも同じような小さな庭があった。さすがにうまいな。手つきがちがう」
「ありがとうございます」タカヒコネは笑った。「でも、何ですか、それ?」
ツクヨミは自分の後ろに横たえていた、細長い茶色の大きな魚のようなものに手をふれた。「何って、舟さ」
「そんな小さいの見たことがない」タカヒコネは珍しそうにのぞきこんだ。「あなたが作ったんですか?」
「いや。サルタヒコに西の方の港から仕入れてきてもらった。軽いぞ。片手で持てる。そしてちゃんと、水にも浮く」
「ためしてみたんですね?」
「川と海では、ばっちりだった。湖じゃ楽勝だ。来いよ。いっしょに紅葉を見よう。おまえ、舟もこげるんだろう?」
「そりゃ、都にいましたからね。海にはよく出ていたし」
「頼もしいね。二人でこいだら、あっという間に向こう岸まで行ける」
「それはさすがにどうかなあ」
陽射しが雲の間から落ちてきて、タカヒコネの笑顔にふりそそぐ。ツクヨミはほっそりとしているが力強い腕で、ひょいと小舟をかつぎあげ、「ほら、来いよ」と頭をふって誘って歩き出す。
タカヒコネはちょっと残りおしげに畑を見たが、すぐあきらめて、ひもの束を柵の柱にかけて、ツクヨミのあとを追った。
※
「いや、これは本当に速いな」タカヒコネははずんだ声を出した。「本当に向こう岸に着きそうだ」
「ちょっと、そのかい、こっちによこせ」ツクヨミは笑いながらタカヒコネの手にしたかいをとりあげた。「そんなにはりきってこがれると、あとでバテる。そしておれがオオクニヌシに恨まれる」
タカヒコネは舟べりにもたれ、ツクヨミもかいを横たえて、こぐのをやめた。舟は暖かい日差しの中で二人を乗せたまま、しばらくゆらゆらゆれていた。
「おまえもなかなか芸が細かい」一人言のようにツクヨミが言った。「どうかすると、このおれも負けるかもしれん。荒々しくも弱々しくも、めざした人間の姿になれるんだな。それもマガツミの特性か」
タカヒコネが首をかしげる。ツクヨミは空を見上げた。
「それにしたって難しかろう。秘密を抱えて苦しんでいた者が、その秘密を告白して重荷を下ろしてすっきりと幸せになって、生まれ変わったふりをしているというのもな。不幸をかくして幸せなふりをするのも大変だが、もう不幸ではなくなった顔をして不幸をかくしつづけているというのは、おれもまだやってみたことがない」
「いつもながら、あなたの話はややこしいな」
「そうか? わかりやすく話してやってるつもりだが。スクナビコとヌナカワヒメは、おまえの傷をていねいにえぐり出して治療した。だが、それがまだ、完全にえぐりとられてなかったら? いずれはまた腐りはじめ、おまえの全身をおおうだろう。心もそれと同じだと言うのだ」
タカヒコネは笑って首をふった。
「わかりやすく、かんたんに言うと、おれはまだ何かを隠してるってことですか。全部は話してしまってないということですか?」
「ちがうのか?」
「おれも自分の気持ちなんて何から何まで全部わかってるわけじゃないから」タカヒコネは軽く眉をよせた。「そりゃ自分では気づいてないことも何かあるかもしれません」
二人の視線がからみあう。ツクヨミはほほえんだ。
「ひとつ忠告しておくが、オオクニヌシをなめるなよ。いっしょに旅してつくづくわかった。あいつは本能的に人の心をうけとめて、見抜くというより感じとる。おれが今言ったぐらいのことは、彼もとっくに気づいてるだろう」
「おれがまだ不幸だってことをですか?」
「むしろ前よりな。おまえが誰にも知らせたくなかったことに、彼もおれも近づきつづけているってことだ。どっちが先かはもはや時間の問題だ」
「いい中年が何を二人ではりあってるんだか」タカヒコネはあきれたように吐息をついた。
※
「この村はのんきすぎて、おれもひまなんでな」ツクヨミはとろりとなまめかしい目をした。「魚をさばいて味つけして、イワナガヒメを抱くのもな。毎日やってると慣れちまって息をするのと変わらなくなる。だからこのごろは、魚の頭を落としたり、イワナガヒメの背中に生えた毛ををなめてやったりしながら、いったいおまえがかくさなくてはならないようなことは何だろうかと、あれこれ考えてみていた。おまえが気にしてるのは、スサノオのことじゃない。祭りの日、おまえはオオクニヌシのキノマタに対する気持ちにまるで気づいていなかった。おまえを失ったスサノオのことで悩んでいたなら、あれはないだろう。という風に、いろんなあらゆる可能性を次々消して行ってだな、何におまえがこだわっているかを考えた。そして結局、ひとつしかないことに気づいた。あまりにばかばかしすぎて、しばらくは信じられなかったが、考えれば考えるほど、やっぱりそれしかあり得ない。聞きたいか?」
「ぜひ」タカヒコネは即座に答えた。その目も声もゆらぐことなく、しっかりとまっすぐにツクヨミを見返している。
ふいと、ツクヨミが目をそらして、舟のわきを見た。「魚がいるぞ」
巨大な黒い影がすうっと水面に近づいて、また底へと沈んでいった。
「鯉かな」タカヒコネがつまらなそうに言った。
「多分そうだが、よくわからんな」ツクヨミが応じる。
「大きさも色も、魚は似たのが多いから、見まちがえることもあり得る。おまえが他の誰かと思って、闇の中で最愛の友人を殺してしまったように」