「水の王子」通信(138)
「水の王子 山が」第三十回
【真実の悪を求めて】
いつの間にかうなだれているタカヒコネを見つめるツクヨミの目が、すごみを帯びて青く光った。
「聞け」彼は静かに言った。「せっかくおまえが大切な秘密を教えてくれたんだから、おれも代わりに今まで人に言わなかったおれの秘密を教えてやろう。おれはイザナミの手先として、さまざまな悪をなし、人々を苦しめた。だがそれは別に、イザナギの夫への憎しみや男嫌いに共感したからってわけじゃない。正直、そんなのはどうでもよかった。本当の、まじりけのない悪人を、おれはさがしたかったんだ」
「そいつは知らなかったな」顔をそむけながらタカヒコネは冷やかに言った。
「タカマガハラにいたころからな」ツクヨミは、ほおにきざみこまれたように、くっきりと残酷そうな笑みを浮かべた。「なぜかおれは、悪にあこがれ、本当の悪人というものに会いたい、そういう存在を見たいと思っていた。イザナミにとらえられ、手下になるよう言われたときも、ぞくぞくするほど、うれしかったね。だが、すぐに気がついた。この女は、失った子どもたちを愛し、守れなかった自分を責め、そうさせた夫と世界を憎んでいるだけだ。まるで普通の善人じゃないか。がっかりしたね。腹もたったよ。しかし、そこで気がついた。彼女に支配され、その手先になって動けば、本当の悪にめぐりあう機会はずっと増えるだろうし、おれ自身の手で、そういうものを作れるかもしれないと。思っただけでもわくわくしたね」
ツクヨミの目はなごみ、紅い唇はうっとりとゆるみ、声までもどこか歌うようになめらかにやわらかくなって行った。
「それから限りない数の悪人を見たよ。人殺しや暴君たち。盗賊や殺人鬼。子どもを殺すのが好きな女、女を苦しめる男、人を焼き殺すのを楽しみにしている老人。ありとあらゆる醜いゆがんだ心の持ち主を、おれは見てきた。だが皆、結局はイザナミと似たりよったりの、にせものだった。彼らの悪には、皆それなりの原因や理由が必ずあったんだ。身体の痛み。心の傷。貧困。恐怖。そして愛情。それらをとり除いてやりさえすれば、ひとたまりもなく彼らは穏やかにまともに、優しくなってしまう。どんな残酷な行為の中にも、宝石にまじった砂粒のように何か美しい清らかなものがまじりこんでしまっていた。美にあこがれる心とか、夢や理想を信じる力とか。それを満たして慰める暖かいことばや輝かしい姿や厳しい忠告や賢い説明を少し与えてやるだけで、彼らはいとも簡単に悔い改めて方向転換し生まれ変わって、ほとんど聖人君子になった」
声は次第にけだるげになり、眠そうに疲れて来た。
「おれは長い旅をしたよ。探して、試して、失望して、それのくり返しの年月だった。すべてが徒労に終わったよ。人間はどいつもこいつも一人残らず、とどのつまりは淋しがりやの弱虫の善人なのだ。何度もそう、あきらめそうになっては思い直して、また探しつづけた。それでもいまだに、本物の、まじりけのない悪にめぐりあったことはない。新しい、珍しい悪人を発見して今度こそはと胸を躍らせることも最近はめったになくなった。アメノワカヒコにだけは、ちょっと期待していたんだが、惜しいことをしたな」
「彼が悪人? タカマガハラの将軍だぞ」
「と言うよりも、あいつもおれと似たことをしてるんじゃないかと、ずっと思っていた。タカマガハラにいるままで、悪人にあこがれ、夢見て、本物の悪を探しているんじゃないかとな。つまらん欲望だの愛情だのを求めているだけの、けちな、にせ悪人の仮面をはいで、平凡な人間の正体を明らかにするために、悪と見える敵が善人になる余地はないかと、さまざまの試練を与えて試してみているんじゃないかとな。それが癖になってるからか、あいつはいつも、どこかしら、醜い、ゆがんだ、異様なものに魅入られていたようじゃなかったか? まあ、そんなことはどうでもいいが」
ツクヨミはかいを横たえ、のしかかるようにゆっくりと、しびれたようにこちらを見上げている若者の上にかがみこんだ。
「これで少しはわかってくれたかね。おれが一番きらいなのは、悪人ぶろうとする善人だということが。なれるわけもない悪人になったつもりになって、自分の弱さや愚かさをかくそうとする、意気地なしの恥知らずだということが。身の程知らずのうぬぼれ屋。しかも心のどこか奥底では、自分は本当はこんな人間じゃないという言い訳を、腐った卵のように抱いていて、それを心の支えにしている、救いようのないみえっぱりの臆病者。おまえのようなやつだよ、タカヒコネ」
あるかなきかのかすかな風が、湖の上をわたって来た。二人の乗った舟の回りでさざ波がたち、銀色の細かい輝きが二人を包みこむようだった。