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「水の王子」通信(139)

「水の王子  山が」第三十一回

【月が満ちる前に】

先ほどまでの、全身にはりつめていた力はもう失せて、すくみあがったように動けずにいるタカヒコネから、ツクヨミはふっと目をそらして顔を上げた。かすかに笑って彼は身体も起こして元に戻した。
 「おれはおまえのようなやつが、一番きらいで、許せない」彼は自分に確かめるように、ゆっくりとそうくり返した。「だから、思いつく限りのどんな方法よりもひどい目にあわせることにしている」
 タカヒコネは無表情にツクヨミを見返した。
 「オオクニヌシに全部話せ」ツクヨミはおだやかに言った。
 「できない」タカヒコネの声がかすかに上ずった。「できない」
 「話すんだ。村を出るとか、死ぬとか言うなよ。今ここで水に飛びこむとかもな。まあどっちみち、そのどれも、させはしないが」
 「考えてもいない。そのくらいならおまえを殺す」
 「大きく出たな」ツクヨミはせせら笑った。「腕の立つのは知っている。それでもおれをどうかできるなどと思わない方が身のためだ。ウズメの鏡ほどでなくても、おまえを手のひらにあふれるぐらいの、ぶよぶよのマガツミにして、指の間からぼたぼた落としながらオオクニヌシに渡してやるぐらいのことは、あっという間にすぐできる。そのときの彼の顔を想像してみろ、楽しいぞ。マガツミに戻ったって多分まだ意識はあるだろうから、見上げられるはずだ、彼の手のひらの上から、おまえは、その顔を」
 タカヒコネの目がゆらいだ。「そんなことは絶対にさせない」彼は一人言のようにつぶやいた。
 ツクヨミは苦笑いした。「どっちみち彼を苦しめるのなら、まだ本当のことを彼に話す方が少しはましだと思わんか? まあいいさ。おまえが言わなきゃ、このおれが全部オオクニヌシに話してやるだけのことだしな」
 タカヒコネは目を閉じていた。長いこと二人は何も言わないで、舟がゆれるのにまかせていた。
 やがてタカヒコネが、ふっと笑った。力の抜けた笑いだった。
 「わかった」彼は言った。「話す」
 「本当か?」
 「くどい」
 「いつ?」返事がなかったのでツクヨミは、空におぼろに浮かんだ細い月を指さした。「あれが丸くなるまでに話さなかったら、おれが言う」
 タカヒコネはうなずいた。「承知した」
 ツクヨミはなお探るように相手を見つめていたが、黙って舟を返した。
 あ、とタカヒコネが低い声をあげた。
 岸辺の紅葉を背にしてオオクニヌシが立っている。いつもの緑色の服の腕を組んだりほどいたりしながら、こちらを見て左右に行ったり来たりしていた。
 「さっきからいた」ツクヨミが教えた。
 「だから舟の向きを変えたのか」タカヒコネが冷やかに言った。「私の方から見えないように」
 「まあな」ツクヨミは妙に人なつっこい笑みを浮かべた。

【タカヒコネの独白】

舟が岸に近づく前からオオクニヌシが猛烈に怒っているのがわかった。岸辺の草をけたてるようにして、クマのように歩き回っていた。
 舟がみぎわに着いて、おれたちが下りるのも待たず、彼は突進して来て文字通り、おれをツクヨミからもぎとって、引き寄せた。
 「いいかげんにしろ」彼はうなった。「二人とも!」
 ツクヨミは肩をすくめて両手を広げた。「おいおい」
 「舟がひっくり返りでもしたらどうするんだ。彼はまだ本調子じゃないんだぞ!」
 おれが頼んだんです、と反射的に言いかけたが、ツクヨミが目でおれを制した。「いや、すまん」と彼は気味悪いぐらい神妙に言った。「たまにはいいかと思ってな」
 「彼に手を出すな」オオクニヌシは恥ずかしげもなく堂々と、きっぱり言った。
 緊張が続いていたせいもあったか、さすがに思わず吹き出しかけ、こらえようと足を踏みしめたらよろめいた。オオクニヌシは「大丈夫か?」と言いながら、おれを抱き寄せ、おれは笑いをかくすのにちょうどよかったから、その肩に額を押しつけた。息がはずむのを抑えられたかどうかは怪しい。
 「わかった」ツクヨミが舟をかつぎ上げる気配がした。「行くよ」
 つい目を上げてしまったら、オオクニヌシの肩ごしに去って行くツクヨミが見えた。一度、彼はふり向いた。
 厳しい、鋭い目の色だった。「彼をだまし通したら、おれが許さないからな」と明らかにその目は念を押していた。
 いったいツクヨミはなぜこんなにオオクニヌシを気にするのだろう? まるで愛しているように。乱れて、薄れそうになる意識の中でふっと思った。身体から力がぬけていきそうで、おれは思わずオオクニヌシにしがみつき、「だから言わないこっちゃない」とオオクニヌシはおれをひきあげながら、勝ち誇ったように叱りつけた。
     ※
 湖から離れて家の方に歩きながら、おれの足どりはまだおぼつかなかったらしく、オオクニヌシが横から腕をつかんで来た。
 「休もうか?」
 「家は、もうすぐそこだから」おれはゆっくり返事をした。だんだんもう、何がどうでもよくなった。家の裏口の前まで来て、スセリが何か片づけている物音と、小さな歌声が聞こえたので、おれは立ち止まってオオクニヌシに向き直った。
 「おれは、こっちから入ります。ちょっとスセリに話があって」
 顔からは多分、もう完全に血の気が引いていただろう。「あなたにも言わなければならないことがあります」と、おれは続けた。「でもその前に、スセリに話しておきたいんです。あなたに話したと同じことを。タケミナカタを殺したことを」
 オオクニヌシは一瞬おれを見つめたが、すぐにうなずき、「奥にいるから」と言って、そのまま離れて行った。
 おれはその後ろ姿を見送った。
 この人を守りたかったのに。そう思った。それだけだったのに。
 自分が今からしなくてはならないことが、ひたすらに恐ろしく、情けなくて、みじめだった。残酷でも、冷たくても、得体がしれなくても、だからこそ皆がどこかでおれのことを、頼っているのがわかっていた。そうやってオオクニヌシをはじめとした大切な人たちの、支えや助けになっていると感じていたから、生きていられた。
 もしも本当のおれがどんなに愚かで弱いか知ったら、彼らは皆もうとても、おれを頼りになどできるわけがない。何のあてにもできるわけがない。彼らにとっておれはもう、何の役にも立てなくなる。見た目は何も変わらなくても、すべてが変わってしまうのだ。それが実際どうなることかさえ、おれには予測がつかなかった。
 根が生えてしまったように、その場を動けないでいると、ふっと足もとが暖かくなった。もしやと思って見下ろすと、やっぱりそうだった。
 あのけものが、草の中に座って心からバカにしたようなまなざしで、おれをしらっと見上げている。
 「帽子めが」おれは歯をくいしばってささやいた。「いい気なもんだ」

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カツジ猫