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「水の王子」通信(140)

「水の王子  山が」第三十二回

【スセリの決心】

けものの、ぴんと立てた大きなふさふさのしっぽの毛が、あるかなきかの風にそよいだ。なぜか今日は、けものはうならなかった。タカヒコネの足の回りを、子細らしい、もったいぶった様子でぐるりと歩き、近づいてにおいをかいだ。それから、ゆっくり離れて背を向け、草の間に消えて行った。
 「何なんだよ?」タカヒコネは小声でののしった。
 「イナヒ? イナヒ、そこにいるの?」
 スセリの声がして、戸口から片手に皿を持ったスセリの姿が現れた。「あら、タカヒコネ! よかった、オオクニヌシがさっきから心配して、とうとう探しに行ったのよ」
 「ええ、会いました。今、奥にいると思う」タカヒコネはスセリの手にした皿を見た。「あいつ、行っちゃったけど」
 「ごはんを作ってやってたのだけど、ちょっと手間取ったので待ちきれなかったのね」スセリは笑った。「大丈夫、このごろいつもああやって、夕方出かけて、夜中近くに戻って来るから」
 二人は家の中に入った。「あいつの名前、イナヒにしたんですか?」タカヒコネはつい聞いた。
 「何となくだけどね。まだ飼うと決めてはいないけど」スセリは照れ笑いした。
 「都にいた時の友だちの名なの。まだ小さいときに、皆で海で遊んでいていなくなってね、それきり帰って来なかった」
 「そうなんだ」
 「家族も私たちも、きっと船で遠くの港に行って、幸せに暮らしてるんだと言い合ってた。何だかあきらめきれずにね。それでつい」
 「あの、スセリ」タカヒコネはせきばらいした。「タケミナカタのことなんだけど」
 「ああ」スセリは笑った。「気にしなくてもいいの。彼もきっと、どこかで元気にしてるんでしょう」
 タカヒコネはスセリが手に持ったままの、えさの皿をとりあげて、そばの台の上においた。「もっと前に言わなくちゃいけなかった。オオクニヌシには言ったんだけど、山が崩れたあの時、がれきの下で」
 スセリはけげんそうに、タカヒコネがとり上げておいた皿と、彼の顔を見比べた。「座ったら?」と彼女は低い声で言った。「とても疲れているみたい」
 タカヒコネは首をふった。「オオクニヌシも、おれがあんたに話すのを待ってたようなんだけど、おれはなかなか言えなくて」
 「そうなの?」スセリは聞かされる内容より、タカヒコネの顔色の方を気にしているようだった。
 「おれは都にいたとき、王だったとき、スサノオに命じられてある仕事をしなくちゃならなくて、そのときに、彼を殺してしまったんです。タケミナカタを」
 スセリは小さくうなずいただけで、表情は変えなかった。
 「あなたの息子を」不安になったタカヒコネは、小さい声で念を押した。
     ※
 スセリは悲しげな優しい笑いを浮かべた。「知ってたわ」
 「え?」
 「あなたが彼を殺したことなら、ずっと前から私は知ってた」スセリはタカヒコネを見返し、首をふった。「いえ、オオクニヌシが言ったんじゃない。スクナビコが話してくれた」
 「でも、彼は…」
 「ええ、あなたが殺したのよね。草原で。それも聞いたわ」
 「彼はいったい、誰なんです?」
 それには答えず、スセリは歩みよって、タカヒコネの手をとった。
 「話してくれてありがとうね。本当に、とても勇気がいったでしょうに。けれど、黙っていたということなら私の方があなたにおわびをしなくちゃならない。あなたと、そしてオオクニヌシに」
 彼女の小さく弱々しい細い指が、きつくタカヒコネの手をにぎりしめた。その顔が見違えるように、どこか若々しくひきしまった。彼女は戸外の空を見やった。
 「私は大切なことを忘れてしまっていたわ」彼女は言った。「人には決して許さないだろう生き方を、自分に許してしまっていた。秘密を抱いて人の上に立った気になる喜びに、いつか自分で酔っていた」
 「何のことです? ねえスセリ、いったい何がどうなっているんです?」
 スセリは若者の肩に手をかけ、そばの椅子に座らせた。「ここにいて。全部話すわ。でもその前にオオクニヌシに話さなければ。ここで待ってて」
 「待てないよ。いっしょに行きます」
 「どっちでもいいわ。好きにして」
 衣のすそをひるがえして、驚くような早足でスセリは奥へと入って行った。

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カツジ猫