「水の王子」通信(14)
福岡在住の作家吉岡紋さんからいただいた、「九州文学」の中の、「雪螢」という求菩提山の山伏のことを描いた小説があまりにも魅力的だったので、ついつい雪つながりで「吉野の雪」の本をお送りしてしまった。格調も迫力も段違いなのに、あーもう私の恥知らず。
とは言え、ちょこっと弁解すると、だいたい「鳩時計文庫」の小説って、「水の王子」はまだしも何とか普通の大人が読んでも違和感ないかもしれないが、他の作品はどれも、ものすご~く少女小説、少女漫画風で、ミーハーチックで甘い。のだけれど、あのね、そういう甘い枠組みの中で、けっこう純文学にも匹敵する重い深いテーマを扱ってるのが、もったいないような、食えないようなところなんですよね、このシリーズは。
「吉野の雪」もすらっと読んだ限りでは、ある意味ちょっと歯の浮くような今で言うならボーイズラブものの一種かと思われそうだし、実際そう楽しんでいただいてもちっとも困らないんですが、この作品のポイントは、指導者、政治家、思想家、教祖、そういう人たちのあり方についての考察でもあるんです。
この作品の中で義経が、堀川の館で兄とは戦わない道を選択し、腹心の家来たちがそれについてこもごもの思いを述べる場面があります。それは一つの思想、哲学のドラマなんですよね。「平家を倒してよりよい世の中を作る」という目的のもとに結集した集団と、その中心となり核となったシンボルの人間の、関わりと責任はどうあるべきかっていう。
昔、筒井康隆が何かのエッセイで、「自分は若いときにフロイトにはまって、そういう考え方や見方ばかりしていて、さぞいやらしくて鼻持ちならなかったろうと思うけど、同じ年齢の若者がはまる、もう一つのマルクス主義の方にははまらないですんだ」みたいなことを言っていました。(すごく大ざっぱなまとめですから、細かいところはちがうかもしれない。)
私は筒井康隆は今も昔も相当好きな作家です。そして、これだけきちんと自分を見ているだけあってか、彼はマルクス主義についても決して偏見や差別はなく、例の唯野教授の文学論の中でもプロレタリア文学をきちんと評価しています。そこはさすがに私の好きな作家だけある。
ただ私、これもまちがいかもしれないけど、そのエッセイのその一文を読んだとき、「あー、彼の時代小説に、他のジャンルと比べて私が魅力を感じないのは、彼がマルクス主義にはまらないというか、歴史のロマンを描けないからじゃないかな」と思ったのね。そして身の程知らずもいいとこだけど、「あ、ここで私は彼に勝ててる」とか感じたものなのよ。それはもう何の役にも立たないし誰も認めもしないだろうけど、私の絶対的な自信でした。
ついでに言うと、多分私の小説や、私自身をどこかでどうしても理解できない、評価できない人と言うのは、きっとこの感覚が共有できない人なんだろうなと思う。いいとか悪いとかじゃなく。理想や思想や宗教に身を捧げ、献身する恍惚に身をまかせられない人。そういう体験や誘惑を知らない人。
「吉野の雪」を書いたとき、知りあいの編集者が、「作者はこれまでとちがったものを書いた」と人に言ったそうです。それはつまり、この作品の主人公が、何かに命や心を捧げた生き方をやめて、平凡な日常の中に埋没する幸福を発見したという境地が描かれていることで、たしかに鳩時計文庫では存在しなかった展開でした。
そういう意味では、新しい境地です。しかし、この作品のラストでは、それがまたくつがえされ、主人公はふたたび、理想や非日常の生き方に身をゆだねることを選びます。結局はそれが私の世界でした。少なくとも今後も死ぬまで消えることはないでしょう。世界の運命や永遠の理想に目を向けて、めざさないまでも、どこかで平行して歩み続けること。それが私の研究や創作や日常のどこかに残り続けるでしょう。
「水の王子」の中では言うまでもなく、それはタカマガハラという世界です。ヨモツクニはその対極の快楽や無軌道ですが、その両者を止揚(わー、なつかしい言葉だこと)して新しいバランスを作ろうとするのがナカツクニやネノクニの試みでもあります。
祭りの場でアメノワカヒコがタカヒコネにささやくように、それはかつて彼(ワカヒコ)のいた世界であり、彼はまた「吉野の雪」の主人公のように、そこに戻って行くのではないかとタカヒコネは予感しています。
私がまだ生き続ける限り、「水の王子」の続編は(書かれなくても)あり得るだろうし、ナカツクニの村も登場人物も、これからどうなるかはまだわかりません。しかし、この第五部が第四部完成後の四十年間の私の年月が生み出した世界であるとしたら、私の実感としては、その年月はそうまちがってはいなかったかもしれないという気がします。ちがう生き方をしたらまたちがう村が生まれ、作品が生まれたのでしょうが、それはもっとすばらしいものになったのかもしれませんが、今の私は充分これで満足です。