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「水の王子」通信(152)

「水の王子  山が」余談 第二話「イナヒ鍋」(1)

【タカヒコネの独白】

かけねなしに、本当に、イナヒはこのおれのことが嫌いらしい。ムカつくのは、スセリはもちろん、オオクニヌシともスクナビコとも、それなりにうまくやっていることで、オオクニヌシに、のどをくすぐられて目を細めていたり、スクナビコのひざのそばに丸くなって、しっぽを彼の足にのせていたりする。それが、おれと目が合うと、いきなり目を三角にしてにらみ、毛をさかだてて、うなりやがる。このごろでは皆が明らかにそれを面白がっていて、笑うまいとしているのも、しゃくにさわる。
 驚いたのは、ニニギやタカヒメやコトシロヌシが、たまたま訪ねてきて家に入って来ても、イナヒは横目でにらむぐらいで、特にうなったり怒ったりはしない。へやのすみで目を閉じて、寝たふりを決めこんでいる。
 「要するに、君のことはうちの一員として認めてはいるんだよ」オオクニヌシが変な慰め方をした。「だから無視しないで、うなるんだ」
 「それに、前よりは少しずつよくなっているわよ」とスセリも口をそえた。「昔はあなたを見たら、ううふうう、ふううとかうならないではすまなかったのに、このごろじゃ、う、というぐらいでやめるじゃないの」
 「よく見てるとじゃ、う、も言ってない時があるぞ」スクナビコも言った。「口を開けて、そのかたちにするだけでな」
 そんなの、いちいち見ていられるか。
 そのくせ、こいつはおれに変に関心があるらしくて、家の中でも外の庭でも、妙におれの行く先々に出没する。オオクニヌシといい勝負だ。ときには同時に現れる。オオクニヌシが笑いかけて来る足もとで、こいつはおれを上目づかいに見上げては、「う」というかたちに口を開けて、赤いのどと、とがった白い歯を見せる。おれがにらむと目をそらして、しっぽを左右にばさばさと振る。いちいち疲れる。
     ※
 おれのへやにも、こいつは興味があるらしい。前は戸を開けっ放しにしていたが、入りこまれるのがいやだから、このごろは閉めている。その戸の前をよくうろうろしている。一度は戸にくっついて床の上に寝ていて、おれが近づくと見上げて「う」と言った。このときは、はっきりと声が聞こえた。
 どこからどうやってすべりこんだか、一度は月の夜、寝台のふとんの上にえらそうに丸まって寝ていた。その時はさすがにおれも驚いて、どうしたものかとしばらく立って、見下ろしていた。
 そのままいつまでも目をさまさないから、おれもしかたなく、反対側のはしからふとんに入って、もぐりこんで眠ろうとした。するとふとんの上で「う」という声がして、無視していると、いつの間にかいなくなっていた。

【話しとらんぞ】

 タカヒコネが小さく声をあげたのでスクナビコは手をとめた。
 「痛いの?」
 「うん」
 スクナビコは歯の抜けた口をすぼめて、若者の腕の傷口をあらためた。
 「ほんともう、わしの正体を知って恐くなくなったんじゃろうが、文句が多くなったのう」
 タカヒコネは軽くそっぽを向いただけで、返事をしなかった。
 「それに何もそう怒らんでも」スクナビコはため息をついた。「案外と、しつこいんじゃな」
 また返事はなかった。
 「わしがスセリといっしょになって、あんたとオオクニヌシをバカにしとったと言うなら、それもええがの」スクナビコは続けた。「それだけいつまでも怒るんじゃったら、せめて事実をゆっくりしっかり確かめてからでも罰はあたらんじゃろうがな。まったくもって、ようもそれで、王などやっておられたのう」
 「そこ、まだ痛いんだけど」
 「わかったわかった、こうならいいか?」スクナビコはていねいに、傷口の血をぬぐって薬を入れ直した。「おまえさん、そんなにおっちょこちょいだから、とり返しのつかんような人まちがいもするんじゃろうが」
 「あんたに関係ない」
 「そうじゃろうか」スクナビコは言った。そしてどこやらシタテルヒメっぽい口調になる。「あなたが一番怒ってるにちがいないことだけでも言っとくと、私、お父さまとしていた話、全部お母さまに話してなんかないことよ」
 「知らないよ。おれ寝てたから」
 スクナビコはせきこみながら吹き出した。「嘘つきの恥ずかしがりや。お父さまが私と村の女たちのうわさ話をしてたこと、お父さまの気持ちを思っただけで、顔から火が出そうになったんでしょ。言っときますけど私の父は、あなたより図太いわ。それは娘と浮気相手候補の腰だの尻だのの話をしてたと知って、めげたにはちがいないけど、あなたが思うほどこたえてなんかいませんったら」
 「寝てて聞いてないっつってるだろうが」
 「だったら何で、自分がおちょくられていたことも気にしないで、あのときあんなに、ぶち切れたのよ? お父さまの気持ちを思いやって我を忘れたんでしょうが」
 タカヒコネは肩で息をついた。「何でおれが寝てなくて聞いていたって決めつけてんだよ? それとも起きてるって知ってて、わざと聞かせてたって言いたいのか? 親子まとめてバカにして、それがそんなに―楽しいか?」
 声の最後が小さくなった。スクナビコは、しわのよったのどを震わせて、くっくと笑いを飲みこんだ。
 「ほらまた口をすべらせた。親子ねえ、まあいいわ。あのね、あのとき、あなたがあんなに怒るまで、あなたが目をさましてたこと、私だって気づかなかったわよ」
 「どうだかね」
 「あのね、私だって若い娘よ」スクナビコはぬけぬけと言った。「実の父親とよその女たちの色気について話し合うなんて、それなりに緊張するし集中もしなくちゃならないの。あなたのことに気を配る余裕なんてあるもんですか」
 タカヒコネは横目でスクナビコを見た。そのしわだらけのまぶたの奥の、きらきら躍る黒い目のみずみずしい輝きを、半信半疑の表情で見つめた。
 「だからね、あんな話、お母さまには話してません」スクナビコはしっかり言った。「安心しなさい。そして身体に悪いから、そんなに怒りつづけるのはやめて」
 「本当に言ってないのか?」
 「もう一つ安心させてあげると、お母さまもきっと聞いても平気だけどね。わしが言うのがいやなんじゃよ」
     ※
 「ならいいさ」タカヒコネはしぶしぶ言った。「もういいよ」
 「まだ信用はしてないのね。いいわ、ゆっくり考えて」スクナビコはふとんをかけ直し、立ち上がりかけてよろめいた。「おっとっと。年をとると足腰が弱くなって困るわい」
 タカヒコネは期待とも不安ともつかぬ目でスクナビコを見た。
 「あんた…その、いつまで生きるんだ?」
 「わしが死んだら治療してもらえなくなるのが心配か? いや逆かのう、もう治療しなくてもすむようになるから、早くいなくなってほしいのかの?」
 「別にあんたが生きてたって、その内治療は終わるんだろ、もう傷は治ってきてるし」
 「そうはいかんよ。おまえさんが生きてる限り、ずっとこの手当ては必要なんじゃ」失望とも不安ともつかぬタカヒコネの目の色を見て、スクナビコはくつくつ笑った。「それで何じゃったかな、ほい、わしの命の話か。正直言うて残念ながら、わしにもまったくわからんでな。おまえさんが首を切る前までのスクナビコが、どのくらい生きてたかは、とんとわからん、誰も知らん」
 「ええと…」
 「で、それが今のわしに引きつがれておるかどうかということなら、これがまた、さっぱり見当つかんでなあ。ある朝いきなり寝床の中で、しなびて冷たくなっておるかもしれんぞ」
 「もういい」タカヒコネはまくらに頭を沈めて、あおむけになった。「聞いたこっちがバカだった」
 スクナビコは世にも楽しそうに、くっくっとまた笑った。そして骨ばった指をのばして、若者の髪をくしゃくしゃにした。

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カツジ猫