1. TOP
  2. 岬のたき火
  3. ミーハー精神
  4. 「水の王子」通信(153)

「水の王子」通信(153)

「水の王子  山が」余談 第二話「イナヒ鍋」(2)

【タカヒコネの独白】

ツクヨミは実に油断がならない。
 昨日浜辺で会ったら、ちょっとうまいものを作ってみたから店に来いと言われた。
 こいつに誘われたら、ろくなことはない。それはわかっていたが、それでひるんでなるものかと思った。恐がっていると思われるのもしゃくだった。だからついて行った。
  朝が早くて店はまだ開けておらず、イワナガヒメはもとは船の甲板だった上の階で何かしているようで物音がしていた。「店に出る前の化粧をしているのさ」とツクヨミが聞かれもしないのに指を上げて上を指した。「変わりばえしないからやめとけって言うんだが、あれにはあれのこだわりがあるらしくってな」
     ※
 大きな土鍋がかまどにかかって、いい匂いがしていた。
 「少しさましておいたから」とか言って、大きめの器にとりわけたのを、ツクヨミはおれにさし出した。
 さすがに目を見はって、動けなかった。
 器の中に、イナヒがいた。
 身体は半分くたくたに煮えてくずれかけていたが、茶色と黄色のしまは、まだよく見えた。何より、恨めしそうに目を見ひらいた顔がそのまま、器のふちにあごをのせて小さな牙をむいたまま、じっとこちらを見上げている。
 「毛はわざとそのまま残した」ツクヨミが涼しい声で言っている。「皮ごとすぐにはげるから大丈夫だ。足を一本味見してみたが、こいつの肉はなかなかいけるぞ。残りはそっちのなべにあるから、足らなかったら、つぎたしてくれ」
     ※
 彼が得意げに台の上においた器には目もくれず、おれはツクヨミを押しのけて、かまどの上のなべに突進した。
 火はもうほとんど消えていて、なべの中は静かだった。ほのかな湯気が上がっている。
 下の方には手足が見えるような気もしたが、澄んだ汁の中にいっぱいに広がって、はしがなべのふちからはみ出しているのは、まごうかたなく見なれたふさふさのしっぽだった。
 胸がつまって、息ができなくなりそうだった。おれがまださわったことのないままのしっぽ。だがこれが意気ようようと草むらをわけて進んで行くのを何度見たことだろう。
 何でおめおめ、ツクヨミなんかにつかまったんだ。まさか生きたまま煮られたんじゃないんだろうな。死ぬときに何を考えたんだろう。故郷のことか。スセリの家か。最後にもらったえさのことか。寝床にしていたかごの中で、まどろんでいた時のことか。
 そんなことのいろいろが、ものすごい勢いで頭の中をうずまいて目まいがしそうになっていると、すぐ横に来ていたツクヨミがくっくっと笑う声が聞こえた。
 おれはかっとして、ふり向いた。そのとたん腰に腕をまきつけられて引きよせられ、真正面からしっかり長々と口づけされた。
     ※
 一瞬何がおこっているのかわからなかった。妙にはっきりわかったのが今までおれが口づけしたたくさんの女の誰にもまさって、ツクヨミの唇があたたかくなめらかで、とろけるようにしっとりと、きめこまかだったことだ。こいつが女に化けてタマヨリヒメと名のって、この店を切り盛りしていたころ、よく隣りに座って、しなだれかかって来た横顔の形のいい唇を見て、奪ってやろうとか、うまそうだなと考えていたおれの見こみはまちがってなかったことになるが、それをこんなかたちで確認するとは、さすがに夢にも思わなかった。
 「あわてるなよ」身体をはなしたツクヨミは、おれの両腕をつかんだまま、どう考えてもそこはふつう、怒るなよ、じゃないのかと思っているおれにはかまわず、そう言った。「あのとき、オオクニヌシが来るのが見えてなかったら、舟の上でとっくにこうしていたんだから」
 何から先に怒っていいのか迷ったのは一瞬だ。おれはなべの方を目で示した。「こんなことをしやがって!」
 「どっちのことだ?」わかっているはずなのに、ツクヨミはぬけぬけと聞いた。
 「このなべに決まってるだろうが!? きさま、イナヒに何をしやがった!?」
 ツクヨミは用心深くゆっくりと、おれの腕から手をはなし、そばのかごから長いはしをとって、おれに渡した。「おまえ、こいつを食ってみたいと言ってたんじゃなかったっけ?」
 「言ってない。絶対に言ってない!」
 「そうか、おれの聞きちがいだったかな。だがどっちみち、こいつのことは嫌いだったんじゃないのか?」
 「だからと言って!」
 「喜んでもらえると思ってたんだがなあ」
 「ツクヨミ、きさま―」
 「いいからそのなべ、かきまぜてみろよ」
 「やなこった」
 ツクヨミは首をすくめると、はしごとおれの手をつかんで、なべにつっこみ、おれが手をひき上げようとしているのを押さえつけて、むりやりに、はしでしっぽをはさんだ。
 ぐにゃり、としっぽがくずれて、とけた。あっという間にばらばらになって、汁にとけて、元の形がなくなった。
 幻を見ていたのかと目を疑って、おれは思わずふり向いて台の上の器を見直した。まちがいない。イナヒの頭はそこにあって、おれを見返している。
 ツクヨミが身体をのばして器をとり、木のさじで頭をつつこうとして、手をとめておれを見た。
 「なくなる前に、なつかしくなるだろうから、もう一度ちゃんと見とくか?」
 おれは息をのんだまま、目を凝らした。そう言えば、そう思って見れば、どことなく目がおかしいし、耳のかたちもちがう気がする。
 ツクヨミは小さく鼻歌を歌いながら、さじで頭をぽんと二つに割った。たわいなくそれは砕けて溶けて行き、しっぽ以上に、あとかたも残らなかった。
 気がつくと肩で息をしていた。とにかく、これはイナヒではない。
 あいつはどこかで、まだ生きている。
 そう思ったときの、しびれるような幸福感は、どう言ったらいいかわからないぐらいで、ちょうど窓から流れこんできた金色の朝の光が、一気におれを包んだのはそのままに、おれの心のようだった。
 「ほら、食ってみろって」ツクヨミがさじですくった器の中味をおれの口につきつけて来た。文句を言おうと開いた唇に、さじが入って来たから、しょうがなくてのみこんだ。魚と海草の香りが漂う、たしかに極上の味だった。
 「うまかろ?」ツクヨミは得意そうだった。「この形を作りながら、この味を出すというのは大変なんだぞ」
 「くだらないことしやがって!」おれは手で口をぬぐいながらののしった。「いったい全体、何のために―」
 「そりゃ、おまえのその顔を見るために決まってるだろうが」
 「イナヒはどこだ?」
 「知らんよ。昨日は一日ここにいたんだがな。肉のきれっぱしでつったら、あっさり入って来て、そこの棚の上で、たらふく飯のあまりを食って、ごろごろ昼寝をして出てったよ。その間じっくりながめて、それから料理にかかったってわけだ。見ての通り、おれは中途半端な仕事はしない。苦労したぞ。しっぽの黒い部分は海草で何とかなった。あと毛皮のだんだらじまだが、卵と芋と魚の身で、いろいろ工夫してみたが、何べんやり直したことかわからん」
 そんなこと言われても、まるで感謝する気にはなれなかった。
        ※
 イワナガヒメが階段から下りてきた。「おいおい、大成功だぞ」とツクヨミは、うきうき報告した。「タカヒコネは完全にだまされた」
 「ごめんね、タカヒコネ」イワナガヒメはうなった。「一応とめたんだけどね」
 「いいよ。こいつをとめられるなんて、誰にもできるわけないんだから」おれは言ってやった。
 「これは定番料理にしてもいいな」ツクヨミは手をこすり合わせた。「きっと人気が出て、評判になるぞ」
 「バカ言うんじゃないよ」イワナガヒメは近づいて、ツクヨミの差し出すさじから、料理をひとくち、味わった。「たしかに味はいいけどね。かけた時間と材料の上等さを考えたら、到底あんた、もとのとれる話じゃない。あら、タカヒコネ、もう帰るの? 一杯飲んで行きなさいよ」
 「ありがとう。でもまた来るから」
 外に出ると、浜辺は朝の紫がかったもやに包まれて、その間から金色の光がこぼれていた。砂の上で何かが動いたと思ったら、イナヒだった。海鳥をねらっているらしい。光をかきまぜるように、しっぽを振り回しながら、あちこちはね回っているのを見ると、真剣にねらっているのではなくて、半分遊んでいるのかもしれない。
 「鳥なんか、つかまえるなよ」おれはつぶやいた。「コトシロヌシに、嫌われるぞ」

【スセリの反応】

タカヒコネからその話を聞いたスセリは、若者がちょっと憤然とした表情になったほど笑いこけた。「ツクヨミったらもう本当に、いったい何をやってるんだか」と彼女はタカヒコネの寝台のすそに座って、足もとのわくに手をかけながら身体を二つに折っていつまでも笑い続けた。「あなたを相手に選んだというところが、また憎たらしいわね。私たちの中じゃ一番イナヒを近くで見てない人だもの。だましやすいとふんだのじゃない?」
 「おことばですが、スセリだってきっとだまされたよ」タカヒコネは言い返した。「しっぽからひげから、あの上目づかいの目つきまで、あいつそのものだったんだ」
 「そうね。まあ考えてみれば、とっさに見たときのショックで度を失うという点じゃ、私たちのほうがだまされやすかったかもしれない。そこはきっと賭けだったんでしょうね。あの人、いろいろ考えたのよ」
 「ツクヨミって、そんなにバカなことで時間をつぶすやつだったんですか?」
 「彼を何だと思っていたの?」スセリは言った。「若いときから、ああいう人よ。もしかして、口づけでもされたんじゃない?」
 「なぜわかるんです? ええ、油断してたら、いきなり」
 「昔からそうだったの。オオクニヌシぐらいのものよ。あの人がねらってたのに唇を奪えなかった相手と言ったら」
 「一番奪えそうなのに」
 「そこがオオクニヌシなのね。ツクヨミがどうしても手に入れられないもの」
 「そしてあなたが手に入れたもの」
 「ツクヨミを失うかわりに」
 「後悔してる?」
 「時々ね」
 スセリの目はいたずらっぽく笑っていた。「ほんの時たま」
 どこか遠くで音楽が流れていた。少し前に村に居ついた娘の一人がかなでている、たて琴の音らしい。湖の上を飛んで行く鳥たちの声とそれが入りまじっていた。
 「神殿にしばらくいた、太鼓打ちの若者たち、今ごろどうしているんでしょうね」タカヒコネが言った。
 「またその内に、ふいと帰って来るかもよ」スセリが言った。

Twitter Facebook
カツジ猫