「水の王子」通信(154)
「水の王子 山が」余談 第二話「イナヒ鍋」(3)
【タカヒコネの独白】
それでもう、ことはすんだと、おれは思っていたのである。月がまた満ちるころ、ニニギが変に陽気に浮かれてコトシロヌシの家に来て、「なあなあ知ってるか? ツクヨミの店にイナヒ鍋って名物ができて、皆押しかけて大人気らしいぞ」と言うまでは。
「何だそれ?」コトシロヌシが聞きたがった。「あのイナヒと何か関係があるのか?」
ニニギは話しながら吹き出した。「あのイナヒそっくりの形の魚や何かのねりものが作ってあって、鍋に野菜といっしょに煮てあるから、まるっきりイナヒをそのまま料理したように見えるんだそうだよ。しっぽや顔も本物そっくりで」
「趣味が悪いなあ」コトシロヌシはあきれた。「うまいのか、それは?」
「これがもう、抜群の極上の味らしいね。旅人の間でも噂になって、遠くから食べに来る者もいて、連日店は満員らしいぞ」
「たしかにちょっと見てみたくはあるな」コトシロヌシは腕を組んだ。
「しかも、本物のイナヒがわりとしょっちゅう店に入りびたってて、棚の上とか窓わくの上とかで寝たりしてるらしいんだよ。それを見ながら食べられるのがこたえられないんだと。うまく行ったら、さわったりなでたりもできるらしいし」ニニギはおれたちを見た。「なあ、食べに行ってみないか? おれたち皆イナヒのことは知ってるんだし、どのくらいそっくりか、たしかめたいじゃないか」
「高いんだろ?」
「うん。魚なら二十ぴき、野菜ならひとかご、鹿や猪なら半分、他の料理の四五倍はするらしいな。それでも飛ぶように売れてるんだって。サクヤもホスセリを連れて行きたいと言ってたし、皆で行こうや、きっと楽しい」
子どもにそんなもん見せてどうすんだと思ったが、ここは黙っておくことにした。
※
その数日後、今度はスセリが夕食のときに「イナヒ鍋って有名になってるの知ってる?」と言って、その話をして聞かせた。
「イナヒのやつ、このごろ家にいないと思ったら」オオクニヌシが笑った。「そんなことしていたとはな」
「コノハナサクヤに誘われたんだけど」スセリは言った。「いっそ皆で行ってみない? イナヒが私たちを見て、どんな顔するかも見たいわ」
「面白そうじゃの」スクナビコも乗り気になった。「どうする、タカヒコネ?」
「おれはやめときます。皆さんで行って来て下さい」おれは言った。「どうせもう、一回見たし」
「皆といっしょなら、ツクヨミも変なことはしないわよ」スセリは言わでものことを言った。
「何じゃそりゃ?」スクナビコが聞き返す。
「試作品をごちそうしてくれたのだけど、あんまりイナヒそっくりでびっくりしてたら、いきなり口づけされちゃったんだって」
「あいかわらずだな、ツクヨミも」オオクニヌシはスセリと同じことを言った。「どうせ私を怒らせようと思ってしたことに決まっているが」
「それはお父さまの自意識過剰よ」スクナビコはこういう時にはすかさず娘の口調になる。「タカヒコネ本人が目当てに決まっているわ」
「とにかく、おれは行きません」おれはくり返した。「皆さんでどうぞ」
「じゃ、そうする?」スセリはもうすっかりその気になっているらしかった。オオクニヌシも苦笑して、おれに「本当にいいのか?」と念を押した。
おれはうなずいた。何を意地になってるんだと自分で思わないでもなかったが、何だかいろいろ、しゃくにさわったのだった。
※
イナヒ鍋の人気はうなぎ上りで、最初は一日限定二十食だったのを、三十食に増やして、それでもまだ足りず、しっぽだけや前足だけや耳だけの小どんぶりまで値引きして出しているらしかった。スセリたちの出かける予定もだんだん大がかりになって、コトシロヌシやニニギ一家、タカヒメやタカヒメまで当日はやって来て、皆でわいわい騒いでいた。
「タカヒコネは行かないの?」サクヤが言った。「つまらないわ。都のことやタケミナカタのことなんか、いろいろ話してもらおうと思ってたのに」
「まだちょっと体調がよくなくて」とごまかしながら、おれはどきんとした。タケミナカタに会ったこともないのに、彼をこよなく愛しているサクヤのことはニニギからも聞いていた。いつか彼女にも本当のことを話さなくてはならないのだろうか?
それはまた、あとで考えることにした。
「そもそも今日行ってイナヒはいるんですかね」コトシロヌシが言っていた。「勝手に出入りしてるんだし、いない日だってあるでしょう」
「イナヒのいるときは、店の前に旗が出てますよ」タカヒコが教えた。「イナヒのしっぽの形の旗です。それが出てなくて、イナヒが来ていないときは、料理の値段をちょっと割引してくれるんですって」
「つくづく、商売上手よねえ」タカヒメが声をあげて感心した。「ご夫婦のどっちか知らないけど」