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「水の王子」通信(155)

「水の王子  山が」余談 第二話「イナヒ鍋」(4)

【タカヒコネの独白】

皆がにぎやかに出かけて行ったあと、家の中は急にしんとなった。畑の作物の葉が風にゆれているのまで聞こえるようだった。
 おれは台所の棚にあった餅を焼いて食べ、あとはすることもなかったので、久しぶりにイナヒとまちがえそうな毛皮の帽子を箱から出して、それをかぶって、湖のそばを歩いてみた。赤や黄色の落ち葉がたまっていて、ふむとかさこそ音をたてた。
 とても静かで、いい天気だった。おれはそうやって一人で歩いていて、皆は今ごろ楽しく飲み食いしてるんだなと思うと、淋しいような、悲しいような気もしたが、何だかちょっと幸せなような、ふしぎな気持ちになった。出かけるときにニニギが「おみやげに料理を持ってくるから」とすまなそうに言い、「いらない。絶対に」とすげなく断ると、コトシロヌシが笑っていた。そんなことまでがいらだたしいのに、何か甘くなつかしかった。ひねくれて、皆にもてあまされて、こうやって一人ぼっちでいる自分が、あまりいやじゃなかった。なぜだろう? こんな気持ちは初めての気がした。どこかでとても安心していた。自分のことを嫌いなのに、あきらめて許せる気がした。
 もしかしたら、ただ皆に世話をやかれて、いたわられるのに少し疲れていたのかもしれない。
 都にいたころのことを思い出していた。三人の女や、スサノオのことも。タケミナカタのことも。でもあのころの、自信にあふれた若々しい気分ともまたちがう、今のこの気分は一種ふしぎな安らぎだった。
 湖の回りをしばらく歩いて家に戻った。掃除でもしといてやろうかと思ったが、何だかめんどうくさかったから、寝台に座って、帽子の手入れをした。くしですいて、ふわふわにして、イナヒそっくりにしてから、スセリが虫よけにくれていた乾いた木の実といっしょに、またていねいに箱に入れた。あの老人のことを思い出しながら。この毛皮の生き物とともに冒険をくり返した若い日は、それなりにみちたりていたのだろうと思ったりした。
     ※
 ぼんやり淋しい幸せな気持ちは、日が暮れてもまだ続いていた。外はもううすぐらくなってきたので、おれは着替えてふとんにもぐりこんだ。
 うつらうつらしていると、皆が帰ってきたようだった。笑い声や話し声で、となりのへやがにぎやかになって、料理がおいしかったとか、イナヒがえらそうに店の中を歩き回っていたとか、皆が口々に言いあっていた。
 つまらないような淋しいような、でもやっぱり妙にほっとして幸せだった。皆が楽しそうで、おれのことなんか忘れているのが、とても気持ちがよかったんだ。
 その内に誰かがそっと戸を開けて、おれの様子をうかがって、おれの名を小さく呼んだが、返事をしないでいると、すぐに戻って行った。
 やっぱりもう寝てた、そうか、などと言っている声がして、「せっかくツクヨミがイナヒの前足のとこ、持たせてくれたのになあ」とニニギが言っていた。
 「明日の朝、あたためて食べさせてやるさ」オオクニヌシの声だった。「味がしみてうまくなるって、ツクヨミも言ってたじゃないか」
 ひとしきりざわめいてから、ニニギたちは帰って行き、ホスセリのむずかる声も遠くなって、スセリたちも何か話しながら寝に行ったようで、家の中は静かになった。でも、あたたかく人がつまっている気配はあって、おれはどことなく満足して、ため息をついた。
     ※
 それからどのくらいたったろう? かすかな物音に目がさめた。草原にいたころのくせで、おれは眠っていても耳ざとい。
 何かがへやの中にいる気がした。
 起きて、枕もとの短刀をとったものか思案していると、ふとんの足もとがじわっと重くなった。
 まさか、おい。
 うすくらがりの中、目を開けると、「う」と声がして、何かがおれの顔にふれた。おれの髪のにおいをかいでいるのがわかった。
 おれがそのまま息を殺してじっとしていると、毛でおおわれた顔と、ぬれた鼻先が、おれの額のあたりにふれたりはなれたりした。
 イナヒの毛皮からは、かすかに炭火と酒の香りがした。ツクヨミの店の匂いだった。
 どうしたものかわからずに動かないでいると、ふと「何でおまえだけ来なかったんだよ」という声がしたようだった。それはククキの声だった。ときどき彼はおれにそう言ったことがある。
 心は騒がなかった。恐くもなかった。ククキはたしかに彼なりに、おれに親切だったこともあったと思い出していると、イナヒがいつの間にか、おれの髪の中に顔をつっこむようにして寝ていた。
 「おい、ちょっと」
 声をかけたが、イナヒは知らん顔をしていた。
 なぜかおれは、そのとき思わず、初めてイナヒの背中をなでた。すると「ぐふう」という変な声を出しやがったので、びびってすぐおれは手をひっこめた。
 ぐぐぐ、とイナヒはのどを鳴らした。もしかしたら満足しているのかもしれなかった。

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カツジ猫