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「水の王子」通信(156)

「水の王子  山が」余談 第二話「イナヒ鍋」(5)

【タカヒコネの独白】

それからイナヒはときどき、おれのへやに寝に来るようになった。いったいどういう心境なのか、おれにもさっぱりわからない。
 おれの身体のあちこちの傷はだいたい治って、消えかけてるのもあるんだが、ときどき腫れて赤くなったりすると、スクナビコはそこだけまた切って薬を入れて縫い直したりする。念のためという感じで鼻歌まじりの時もあるが、時にはむずかしげに顔をしかめて傷の中をつっついて首をひねっていたりする。おれも何だかしゃくだから、どうなってるかなんて意地でも聞かない。
 スクナビコはそのあとで一応痛み止めの塗り薬や飲み薬をくれて、もっといるなら言えというのだが、まあそこまでは痛みが長引くことはない。しかしちょっとは気になって眠るまで時間がかかることはある。
 イナヒがそういうときに来るわけではないし、そうでないときに来るわけでもない。要するに気が向いたときにやってくる。おおむね皆が寝しずまって、家の中がしんとしたころ、かしかしと戸をひっかく音がして、相手にしないで放っておくと、まもなくふとんの上が重くなって、何かが乗ってきた気配がし、やがて顔のすぐ前に金色に光る目が二つあらわれて、おれの髪や顔の匂いをかぎにくる。
 こいつのひげは、けっこう多くて固い。それがつんつん顔をつつくので、寝苦しい。目を閉じてがまんしていると、おれの肩口に冷たいぬれた鼻をくっつけて、そこからぐいぐい、ふとんの中にもぐりこんできて、大きなしっぽをおれの顔にかぶせて息ができなくしやがるが、すぐにぐるりと向きをかえて、おれののど元に頭を押しつけて、そのまんま眠ってしまう。
 実際、何を考えてるんだ。
 ときどき、おっかなびっくりで、さわったり、なでたりしてやると、こいつは「ぐふう」と言って、身体をねじってのたくらせる。朝になったらいなくなってる時もあれば、丸くなってよく寝たままの時もある。
 そして昼間におれを見ると、うなりこそしなくなったが、やっぱり知らん顔をして無視する。おれも無視する。
 だから誰も、こいつが夜におれのとこに来てるのなんか知らなかった。
 だがとうとう、ある日の朝、スセリがへやに入ってきて、「ねえ、タカヒコネ、イナヒをどこかで見なかった?」と聞いた。「ゆうべから誰も見てないし、今朝もごはんを食べてないようだし」
 おれは黙って目を閉じたまま、片手でふとんを持ち上げて、のど元にくっついて丸くなって寝ているイナヒを見せた。
 スセリは「…まあ!」とだけ言った。そして、そのまま出て行った。
 おれもそのまま、また寝てしまった。
 イナヒはいつの間にかいなくなったが、そのあとで、おれの傷を見に来たスクナビコは「この、けものたらしが」と言った。「油断もすきもならんのう」
     ※
 「おれは何もしてないよ」おれは言った。「あいつが勝手に来はじめたんだ」
 「ほいほい、そうかい」スクナビコは白い眉をぴくぴくさせた。「オオクニヌシもスセリも大笑いしながら、あきれておったぞ。何より皆の前でのイナヒとおまえの、あのよそよそしさは、ありゃ何じゃいな」
 「あいつに言ってくれよ。無視してんのはあっちだぞ」
 スクナビコは笑いたそうに、もぞもぞとしわだらけの口を動かした。「あっちはあっちで、おまえさんに声をかけられるのを待っとるかもしれんじゃないか」
 「やめてくれ」おれはかんしゃくを起こしかけた。「それに今さわってるそこ、薬がしみて痛い」
 スクナビコはため息をついて「すっかりわがままになりおって」と言いながら、おれの傷あとをたしかめた。「念のため布をまいておく。ええか、イナヒになめさせるなよ」
 「毒なのか?」
 「害はないさ。あれにはいい味じゃろう。おまえさんの傷が心配なんじゃ。何しろ遠国のけものじゃからな。用心にこしたことはない」
 「本当はおまえ、あいつを殺していろいろ調べてみたいんじゃないのか?」
 「またまたそういういやみを言うて」スクナビコはいっこうにこたえた様子はなかった。「そんな風に何の警戒もしとらんから、ツクヨミに口づけされてしもうたりするんじゃよ」
 そう来るかと思ったはずみに、何だかかっとしておれは思わず「今までのどの女より、あいつの口づけはうまかったぞ。唇もなめらかで、吸いつくようにきめこまかで」と言ってしまった。
 「ああら、そう」スクナビコはしわがれ声で言った。「こっちと、どっち?」
 そして、あろうことか、おれの唇に自分のかさかさの、しわしわの唇を押しつけると、笑ってすぐに立って出て行った。
 そうしてくれて助かった。
 ニニギが前に、おまえ、じいさんと思ってたスクナビコが若いきれいな女だとわかって、今までと同じに身体をさわられまくって平気なのかと聞いてきたことがある。
 「だって今はじいさんだし」おれは答えた。
 「それにしてもさ」
 「おれ、そこんところは平気なんだよ。小さいときからずっと毎日、三人の女にかまわれて、身体を調べられて来たんだから」
 ニニギはそれで納得した。事実、本当にそうだった。第一、少々娘っぽいことばを使われたからって、自分が殺したかもしれない男にさわられていると思うよりは、どれだけ気が楽かしれやしない。
 しかし、その時、スクナビコの老人のものでしかない、乾いた唇の押しつける力に、若い命をたしかに感じて、あろうことか自分が顔を赤くしているのに、おれは気づいた。
 ああもう、あのくそじじい。
 おれはとりあえず、ふとんをひっかぶって寝ることにした。
     ※
 おれは陽当りのいい廊下に座って、帽子とイナヒを並べて、くしですいていた。
 最初にこの帽子を見たとき、イナヒの騒ぎ方は大変なものだった。しっぽを三倍ぐらいにふくらませ、他の全身の毛も逆立てて、すごい目で帽子をにらんで、うううううううと高く低くうなりつづけた。おれが知らん顔で帽子をとり上げてひざにのせ、イナヒとそっくりの模様の毛をていねいにくしですきはじめると、ますます緊張して、おれの回りをぐるぐる回った。
 あんまりそれがいつまでも続くから、低いうなり声はしていたものの、おれがもう気にならなくなって忘れかけていたころ、いつの間にか距離をつめてきていて、おれの横から前足をのばして、帽子をひっぱたいた。
 「あ、こら、だめ」と反射的に言うと、ものすごく恨めしげな傷ついた目でおれを見上げた。「これはもう生きてないから、気にしないでいいんだ」と言って帽子を片寄せると、追っかけるように、ひざに乗ってきて、帽子のにおいをかぎ出した。
     ※
 そういうことが数回あって、何とか帽子は相手として恐れるに足らずとわかったようだが、警戒心と好奇心はつのるばかりのようで、おれが帽子を箱から出すとどこかから必ずやって来て、そばで寝るようになった。面白いからついでにくしで背中をすいてやると、最初は飛び上がったが、すぐにぐぬぬぬぬとうなって喜び、自分からひっくり返って腹を見せ、早くくしをあてろと催促するようになった。
 おれとしてはイナヒを喜ばせるために、こんなことをやっているわけじゃない。だんだん寒くなってきて、雪がちらつく日もあったから、そろそろこの帽子をかぶろうと思っただけだが、こうなったらいっそ、イナヒも首にまいて歩いたら、さぞかし暖かいんじゃないかと思ったりする。
 もともとは自分のへやの寝台でやっていたのだが、スセリがこれを見るのが好きで、見えるところでやってくれと頼むので、このごろではそうしていた。スセリは仕事のないときは、そばにしゃがみこんで、あきずにいつまでも見ていた。
 「ほんとに、ふわふわになるのねえ」と彼女は感心した。「でもあなた、自分が帽子を持ち上げて、くしけずっている時のイナヒの顔とか見てないんでしょ。そりゃもう、くやしそうなんだから」
 「いいですよ。その内散歩に行くときには、こいつも首にまいて行ってやるから」
 スセリは笑いをこらえるように両手をにぎりしめたが、ちょっと首をかしげた。「イナヒ、もうかなり重いわよ。大丈夫?」
 「いくら何でも、このくらい」
 おれはイナヒを抱き上げて、肩にかけてみた。イナヒはちょっと目を白黒させたようだが、すぐにだらりとおれの首にたれさがって、ぐぬぬと満足そうにうなった。
 おれは窓の外の、銀色に輝く曇り空を見ながら、早く冬がこないかなとふと思った。

  イナヒ鍋 完 2023.3.14.

【作者からのお知らせ】

こちらはもともと、この章の挿絵として描いていたのですが、ちょっとヤバい気がして差し替えました(でも差し替えた方のがヤバいかな)。おまけにくっつけておきますね。
 それから念のために言っておきますと、イナヒのモデルは絶対に、うちの猫ではありません!(笑)

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カツジ猫