「水の王子」通信(169)
「水の王子 空へ」第八回
【その真の目的は】
その夜の月は妙に銀色がかっていた。タケミナカタがきげんよく、ほろよい加減で、タカヒコ兄妹を連れて船に戻って行くのを見送って、ツクヨミの店を出たあと、コトシロヌシとニニギとタカヒコネは三人でぶらぶらと浜辺を歩いたが、海も砂浜も似たような色で、星の光も薄く、三人の髪や服の色までも灰色がかって皆似て見えた。
「今夜の月はおかしいな」ニニギが見上げて、ひとりごちた。「ツクヨミがどっか身体が悪いんじゃないか」
「海から来る霧のせいだよ」コトシロヌシが説明した。「どこかの地方の砂ぼこりがまじるのか、春先にはときどきこうなる」
「村の木々の青い光も、沖の船の赤い光も、そう言えばかすんでしまってほとんど見えない」タカヒコネも珍しく心細そうにつぶやいた。「煙の中を歩いてるような変な夜だ」
※
「ツクヨミと言えば」波打ち際の大きな黒い岩の上に誰からともなく座ったあとで、コトシロヌシがタカヒコネに聞いた。「彼と何を話していたんだ? 帰りぎわに」
「え? ああ、大したことじゃない」タカヒコネは手をふったが、すぐにもうかくしごとはごめんだと思ったのか、肩をすくめて口を開いた。「まったくもう、くだらん話だ」
「ならいいんだが、私はまた、あんまり毎日タケミカヅチをつれてくるから、何か文句でも言われたのかと、ちょっと心配になったものだから」
「あれだけ毎日酒と料理を注文してやってるのに何の文句があるもんか」タカヒコネは言った。「本当にもう、くだらん話なんだよ」
「聞きたい」ニニギが元気に問いかけた。
「おれを指で呼び寄せて、いきなり、ものは相談だが、と切り出しやがった。何なのかと身がまえたら、おまえ、その、おれに声をかけられたとたん、ヘビににらまれたカエルか、オオカミの前に出たウサギのような顔をするのは何とかならんのか、だとさ」
二人は笑い出した。
「おかしいか?」タカヒコネは顔をしかめた。「おれはそんな風にしてるつもりは絶対にないぞ」
「見方次第だな」ニニギが言った。「むしろ君はおれたちの中じゃ、というより他の誰よりも、あいつに対しちゃ横柄で、生意気で、けんか腰だぞ」
「それがきっと彼の目には、追いつめられたウサギみたいに見えるんだろうね」コトシロヌシがくすくす笑った。「知らない者の目から見たら、むしろツクヨミがいつも君のきげんをとってるように見えるよ。実際そうなんじゃないのか? あれほど傍若無人な態度を平気で彼に対してとれるのは、たしかに見たところ君しかいない」
「そうしてないと、つけこまれるから」
「そうしてるから、つけこまれるんだよ」ニニギが言った。「料理だってさ、いつも君にだけ、おまけの一品をつけてくれるじゃないか。気づいてるのか?」
「気づかないでか」タカヒコネは言い返した。「いつだって、イナヒの足やしっぽの一部を小鉢に入れてくるんだぞ。ただのいやみに決まってるだろうが。おれはすぐにタケミカヅチにやってるし、彼は喜んでぱくぱく食べてくれるからいいけども」
「だってあれ、本当にうまいもの」ニニギはうらやましそうに言った。
「わかった。今度は君にもやる」タカヒコネは約束した。「あいつは、ツクヨミは、やることがしつこいんだよ。この前は珍しく焼肉と卵の小鉢だったから、さすがに今日はちがうかと安心してたら、卵の上に小さいイナヒの耳が片方だけのっていた」
「そんなのに気づく君もどうかとは思うけどね」
「とにかく、あいつには気がぬけない」タカヒコネはきっぱり言った。
後の二人は黙っておかしそうに目を見交わす。
昼の陽ざしのぬくもりを残しているのか、三人の身体の下で岩はまだほのかに暖かかった。
※
「とにかく、ツクヨミが相談したがってたのは」気をとり直してタカヒコネが続ける。「おれたちのーというかタケミカヅチの話を小耳にはさんで、自分たちも聞きたいと言い出している旅人や村人がいるらしいから、少し大きな食卓か、いっそ二階の一室を用意しようかってことだった」
「でもタケミカヅチは今のかたちの方がやりやすいんじゃないのかな」
「おれもそうは思ったけど、あのおっさんはわからんもんな。人がふえたら案外嬉々として話しまくるかもしれん。とにかく、考えてみるから、ちょっと待っといてくれと返事しといた」
「それでいいよ」コトシロヌシはうなずいた。「何より今日の話でも思ったんだが、私たち自身がワカヒコのことをどう思うか、少し気持ちを整理しておかなくてはな」
「ああ、それは同感」ニニギがうなずく。そして、くすんだ夜空を見上げて、ふっと笑った。
「何がおかしい?」
「いや、タケミカヅチが今日イナヒを見て変なことを言ったもんだから、でかくなったあいつがタカヒコネをのせて、そのへんを走り回ってる様子が思い浮かんで、どうもいけない」
「そうなったら少々身体が弱っても足が動かなくなっても、戦士としては無敵だね、タカヒコネ」コトシロヌシも調子にのった。
「あんな動きのとろい、びびりの臆病者が、図体だけでかくなったって、あんまり役に立ちそうもないがな」タカヒコネは苦笑する。
「ワカヒコなら乗りこなせたかな」ニニギが言った。
「その気にさせてか? イナヒをか? 自分が勇ましいけもののように思い込ませて?」タカヒコネは銀色にかすむ夜空を見た。「おれたちもこの村で、いく分かはそうなってたんだろうか? タケミカヅチが言ってたように、心も頭も彼にのっとられて、気づかないままあやつられて、支配されていたんだろうか?」