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「水の王子」通信(170)

「水の王子  空へ」第九回

【弱音の効用】

霧がうすらいで来たのだろうか。月が少し明るくなってきた。ゆるやかによせる波の白いしぶきも見えてきた。
 「私は何しろ、ずっと山の上にいたからなあ」コトシロヌシがため息をついた。「実のところワカヒコとは、そんなにちゃんと話したことさえないんだよ。それでもあやつられてしまうほど彼がすごい力の持ち主だったってことも、むろんあるかもしれないけれど」
 「いやいくら何でもさすがにそれは」ニニギが苦笑する。「とは言っても、そういうことなら私だって、彼と親しくなったのは、この村に来てからなんだよな。むろんタカマガハラではよく会ってたし、訓練もいっしょに受けたりしたけれど、それぞれ任務も忙しかったし、ゆっくりおたがいのことを話したことはない。彼は何しろ有名人だったしね。私がそんなに近づける存在じゃなかった」
 「おれだってさ」タカヒコネが言う。「親しいっちゃ親しかったが、でもあのころ、おれはずっと、タケミナカタのことばかり考えてて、おかしな言い方だが、彼の消えた心の中に代わりに誰かを近づけたり受け入れたりする気分じゃなかった。だから、どうなんだろうな…あのころのおれには、あやつられてしまうほど心を開いた相手がそもそもいなかったんだ」
     ※
 「つまり我々三人は知ってるようで親しいようで、ワカヒコのことは誰もそんなにわかってなかったってことか」コトシロヌシが言った。「少し淋しい話だな」
 「でもおれは彼が好きだったよ」タカヒコネが言った。「いつも気をつかってくれてたのが何となくわかったし、だからと言って近づいたり、ふみこんだりはしなかった。こんなつきあい方っていうか、友人関係もいいものだって、何となくずっと感じてたし、彼にもそれはわかってたと思う」
 「そうだね」ニニギも賛成した。「彼にしてみれば私の立場や役割は、うっとうしいものだったはずだ。村の様子を見てこいとつかわしたワカヒコが返事をよこさないのはなぜか、調べて来いと言われてタカマガハラからさしむけられたわけだもの。なのに彼はちっとも私を避けなかったし、拒否する気配も見せなかった。聞かれたことには、何でもすらすら答えてくれた。タカマガハラに何か不満があったのかと聞くと、あれこれぺらぺら教えてくれたけど、それがもう、船のはしごが使いにくいとか、食事がかわりばえしないとか、よろいのひもが結びにくいと思ったことないかとか、しょうのないことばっかりで、しかもどれももっともだと賛成したくなることばっかりでさ。どうして報告あげないのかと聞いたら、そのときは考え込んで、この村のことがわからないんだよねと悩ましそうだったが、君どう思うと聞かれても、私にもわからなかったし、まあそんな風で、その内に村の仕事があれこれと忙しくなってきてしまって」
     ※
 「二人の話を聞いてると、彼は距離のとり方がうまいのかもしれないね」コトシロヌシが言った。「ふみこまないし、ふみこませない。それでいて、よそよそしい感じを相手に与えない。開けっ放しのようでいて、肝心のことは見せてない」彼は考え込んだ。「いつもふしぎだったのは、タカマガハラの船の乗員たちが誰もまったく彼の悪口を言わなかったことだ。お元気でいらっしゃいますかとか、どうしておいでですかとか尋ねた者も時々いた。何だか彼がいるからというだけで、この村に親しみを感じている者もいるような気がした」
 「じゃ、それが彼の計画か」タカヒコネが自信なさそうに言った。「自分がここにいることで、この村を守るとか。タカマガハラとの関係をよくしておくとか。村に都合の悪い報告をあげないでおいて」
 「でもそれだったら、なぜこの村なんだ?」ニニギが言う。「どこの村でも町でも船に乗ってて将軍のままで、彼はそれに近いことしてたわけなんだろう? わざわざこの村に住みついてまで、そんなことする理由がない」
 「疲れたとか、退屈したとか、飽きたとか?」
 「それにしたって、なぜこの村だ?」
 三人は顔を見合わせる。
 海の方からさわやかな涼しい風が、からかうように吹いて来た。
     ※
 「おれはどうも彼が疲れたとか飽きたとかいう話は、しっくり来ないんだよなあ」タカヒコネが言う。「祭りの準備やヌナカワヒメの病院の手伝いや、その他のいろんな仕事をいっしょにしたが、彼はいつだって楽しそうで疲れた気配を見せなかった。むしろ、どうせそうなるだろうと思うような仕事ははじめからやらなかった。そこはたしかに、ずぼらで怠け者っぽかったかもしれん。『はじめからやり直そうよ。その方が早いよ』とよく言ってたもんな。じいっとねばり強く待つとか、何度失敗をくり返してもがんばるとか、そういうことをまずしなかった。おれがそういうことしてると、そばで寝転んで笑って見てたよ。おれはそういうこと、慣れてたもんな。都での城壁作りや、何やらで。無駄が多くて、つらくても、がまんして続けるのが普通だった。これがタカマガハラ風なのかなとワカヒコ見てて、よく思った。でもひょっとしてあれは、別にタカマガハラがどうこうじゃなく、ただのワカヒコ風なだけだったのかも」
 「それを言うなら、タケミカヅチの話の中で、私が一番想像できなかったのは」コトシロヌシも言った。「彼が恐がったりいやがったり、情けない声で悲鳴を上げたりなんて姿だよ。いくら芝居だからと言っても、あのワカヒコが? いつも涼しい顔をして、腹立つぐらい落ち着いてたろ? おびえたり弱音を吐いたり、助けてとしがみついたり、どうやったらそんなことができるんだ? しかも皆をだませるほどにさ」
 「まあ、タカマガハラじゃ一応そういう訓練もするからな」ニニギが言った。「私だって一応はできるよ」
 「本当か? 見てみたい」タカヒコネが面白がった。
 「そもそも君らは芝居でなくても、そんなことしたことないのか? そんな気分になったことも?」ニニギは逆に聞きたがった。「助けてとか苦しいとか泣き言を言って、人にしがみついたりしたくなったり、したことが?」
 「うーん、私はそんなとき、人に助けを求めたりする余裕なんか逆にないからなあ」コトシロヌシが考えこんだ。「どうしようどうしたらよかろうと考えるのに精いっぱいで、むしろ心も身体も最小限に小さく丸めて、固まって、とざしてしまうんじゃないかな。タカヒコネは?」
 「さしあたり、生まれて一度も考えたことない。そんなことするぐらいなら舌かんで死ぬ」
 コトシロヌシは大笑いし、ニニギは「でもねえ」とつぶやいた。「それで楽になることもあるんだよね」
 「まさか」
 「ほんとだよ。私は実際にはそんなことしたことがない。しなくちゃならないほどの目にあったこともない。私は訓練のときは言われたことを言われたとおりにするのは得意なんだよね。正直ワカヒコよりもうまかったかもしれないよ。おびえたふりも弱音吐くのもすがりつくのも。でも自分でも何となくわかってた。実地には絶対だめだろうって。まねごとぐらいはできてもね。ワカヒコはちがった。見ててもわかった。身も心も声音も目の色も、その人間になりきっている。助けてくれもうだめだと、すがりつかれて見つめられたら、練習のときにすぎないのに、もう背骨がぐにゃぐにゃになって脳がとけちまいそうだった。それで、はいそこまでと教師が言うと、いっぺんに、さらっと普通の目に戻って、にこっと笑ったりするんだぞ。相手はたまったもんじゃない」
     ※
 「おれたちには、そんな気配もなかったなあ」タカヒコネが吐息をついた。
 「その必要がなかったからじゃないのかな。この村で彼は多分、幸せだったんだよ」ニニギは言った。「さっきも言ったろ。たとえ芝居でも、そうやって情けない弱音吐いてると、気楽になるっていうか、救われることもあるんだよ。この村で、そんなことする必要がきっと彼にはなかったんだ。いやはや、うまく言えないな…」ニニギはちょっと唇をかんで考え込んだ。
 「タケミカヅチ相手にワカヒコがやったり言ったりしてたことは、芝居で嘘だったかもしれない。でもね…仲間の戦士に変なやつがいたんだよね。いつも、けがした指とちがう指に包帯をまいてた。傷ついた腕と反対側の腕に副え木をあててた。何のおまじないかと笑われると、本当の傷跡や弱点をあらわに見せると、敵に攻撃されるかもしれんからだと。それがどれだけ効果があったかはわからんよ。でも、この前からタケミカヅチの話を聞いてると、何となくそれをちらちら思い出す」
 「つまりワカヒコはー」
 「本当は苦しかったり淋しかったりしたのかもしれない。人に言えない大変な悩みを抱えていたのかもしれない。心細くて不安でたまらなかったのかもしれない。たとえ芝居でも、全然ちがうことがらでも、恐いとか苦しいとか助けてとか言って、人にしがみつくことで、彼は救われていたんじゃないだろうか。私の思い過ごしかな?」
 「君にはそういう体験があるのか?」
 「ないと思うな。そんなに大きな深刻なことはな」ニニギは答えた。「君らは?」
 コトシロヌシは、しばらくゆっくり考えたあとで首を振った。
 「そもそも、そんな大きな悩みを、私は抱えたことはないよ。ありがたいことに、これまでは」
 「おれはー」タカヒコネは言いよどんだ。「二人とも多分わかっていると思うけど、泣き言言って人にしがみつくかわりに、ちがう方向で、忘れてごまかそうとしてしまったから」
 どことなく朝の気配はあったが、やわらかい夜のとばりは、まだ三人を包んでいた。
 「腹が減ったな」ニニギが言った。「うちに来て何か食べないか? 今から一人で帰ったら、サクヤにきっと怒られちまう」 

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