「水の王子」通信(178)
「水の王子 空へ」第十七回
【大胆すぎる返答】
「漁師たちの話だと、このお天気もどうやら今日までらしいよ」料理の皿を運んできたイワナガヒメが、どっしりした腰に手をあてて、入り江の上の青い空を見た。「明日は雨になるらしいから、店の中に席をとっとこうか?」
「ああ、そうしてくれると助かるな」コトシロヌシが笑って言った。
「今日はおまけのひと皿はなしか?」ニニギが聞く。
「あわてなさんな。ツクヨミが今、腕によりをかけて作っているよ」イワナガヒメが楽しげに答えた。
「そんなもん、よりをかけないでも」タカヒコネがぼそっと小声で言う。
「それで思い出したんですが」コトシロヌシが尋ねる。「お二人、つまりあなたとタヂカラオは、そんなにワカヒコのことを大切にしていらしたのに、戦いの合間の混乱の中で奪い取ってきた薬や食べ物を、そのまま食べさせて心配じゃなかったんですか?」
コノハナサクヤはホスセリを抱き、タカヒメとタカヒコも顔をそろえて、若者たちは昨日と同じ顔ぶれだ。タケミカヅチはにっこりした。「それが、その心配はまったくなかったのですよ」と彼は言った。「タヂカラオは自分の身体と腕力を、それは大事にしておりましてな。日々の鍛錬に余念がなかっただけでなく、こと身体にいいと言われる食べ物や薬には、まったく目がなかったのです。髪のつやをよくする薬から肌にすりこむ脂まで知らないことはなかったのでして。タカマガハラでは身体のことでは男も女も皆が相談役にしていて、医師たちが時おり苦い顔をしていたぐらいでございました」
「はああ、やっぱり、それだけの身体を維持して行くのって、きっと大変なのよねえ」タカヒメが嘆息した。
「さようですとも。珍しい薬や身体にいい果物やけものや鳥が、どこのどういう村や町、山や林にあるかまで、彼は知りぬいておりました。実際、あれです、ここだけの話、あのころ彼が村や町を破壊しまくっておるとき、私はときどき、こいつは戦いに勝ちたいのか、ワカヒコさまにさしあげる薬や食べ物を手に入れようとしているのか、どっちだろうと、ちらと疑ったことさえございました。金銀財宝には目もくれず、片腕に助けた赤ん坊を抱え、もう一方の手には命がのびる卵を産むので有名な極彩色の鳥を何羽も束にして引っさげて、炎の中から戻ってくる姿と言ったら、まあどういうか、異様を通り越して奇怪でしたな」
※
「なるほどねえ」タカヒコネが手を打つ。「そうかそうか。どんなにどさくさまぎれにかっさらって来たものでも、タヂカラオが目星をつけたものだったら何も心配はなかったわけだ。ワカヒコだって当然それは知ってたんだな」
「さようです。だから時々見るからに気持ちの悪い赤と紫のどぎついまだらの卵とか、赤子の手のかたちそっくりの果物をさしあげて、ちょっとびっくりされて私を見ても、タヂカラオが持って参りましたと申し上げると、ああそうかと言って平気で口に放りこんでおられましたよ」
「聞いたかい?」ちょうどイワナガヒメが運んできた、イナヒの顔のかたちの煮物が入った器を皆に回しながら、コトシロヌシがくつくつ笑った。「ワカヒコはきっとこんなのも、気にしないで平気で食べたよ」
「ほっとけ」タカヒコネが苦笑する。
「彼が長になってる町って、今どんなになってるんだ?」ニニギが気にした。
「ああ、それはもう、何かすごいことになっとります」タケミカヅチは眉をあげた。「薬草園や動物農場がわんさとあって、身体をきたえる練習場や競技場も小さいながらに整っていまして、遠くから力自慢の男女が身体をきたえに訪れる。その一方で身体の弱い者やひよわな子どもや病み上がりの者も保養にやって来とります。あの『灰色の町』からも傷ついた身体を黒い衣でかくした男女が多く来て住みついて、タヂカラオの手助けをしておるようですな」
「この村にも昔はよく来てたねえ、薬草や化粧品を売りに来る黒い衣の人たちが」コトシロヌシが思い出した。「今は病院でヌナカワヒメが栽培するから、もうあまり来ないけど」
「住みついちゃった人もいたのよね、薬草売りに来てそのまま」コノハナサクヤも言う。「結局、他の旅人と同じで、いつの間にかまたいなくなって、トヨタマヒメだけが残っちゃったけど」
「じゃ彼女もひょっとして『灰色の町』にいた住人?」
「どうかな、そうとは限らないよ。あのころは戦いが激しくて、傷ついた身体を黒い衣でかくしてた旅人は、どこの村にも町にもいたから」
※
「すみません、すっかりお時間をとらせてしまって」コトシロヌシが居ずまいを正した。「昨日のお話の続きをどうぞお聞かせ下さい。自分の努力が足りなかったというのかと聞いたイザナミに、ワカヒコは何と答えたのですか?」
タケミカヅチは、うってかわって苦々しげに顔をしかめた。
「だから、そこがあの方は恐ろしいのですよ。言下に言い返されました。足りませんでしたね」
きゃっとサクヤが声を出さずに袖で口をおおう。タカヒコネが片手を食卓の上に投げ出した。
「これでもゆうべ私なりにいろいろ返事を考えてみていたんだが、それは予想もしなかったぞ」
「私もだ」ニニギも言った。「あいつ本当にバカなのか?」
「それだけではないのでして」
「まだ?」
「女が何か反応する前に、続けさまに言われました。あなたの頼み方は本気じゃない。真剣に相手に頼んでいない。相手を信じていない。中途半端でいいかげんだ」
「死にたいとしか思えんな」
「イザナミはその直前に、自分がどんなに必死で人に訴えて、すべて無視され、裏切られたと語ったばかりなのだろう? もう疲れ果てたし、絶望したと、延々と、切々と。それに、即座に、その返事か?」
「私も身が凍りました。とてももうお守りできないと思った。幻のようにそのとき、かけぶとんを通して、ずたずたに砕かれたあの方の足や、指が一本もなくなった切り株のような手が一瞬ちらと見えた気がしたのですが、正直もうそれも知ったことかと思ったぐらい、頭がぼうっとしてしまった」
※
「しかしふしぎなことに、女はさして怒らなかったのです」タケミカヅチは言った。「むしろ、これまでに一番静かな声で聞きました。なぜそう思う?と。低く長いため息とともにワカヒコさまはお答えになりました。あなたがそれを望んでないから。人があなたの望むことを聞いてくれるのを、恐れているから。だから必死で訴えてない。相手にわかるように話さない。あなたがそうするのは、拒絶されたり無視されたりするのを恐れているからじゃない。あなたは相手があなたの言うことをわかってくれて、逃げないで、ごまかさないで、向き合って、あなたといっしょに戦おうとしてくれるのが恐いんだ。あなたの望みをかなえようとしてくれるのが恐いんだ。そうすることで、その人が、どれだけ傷つき苦しむか、それを見るのが恐いんでしょう。そして一息ついてから、低くはっきりおっしゃった。…そんな相手を愛してしまうのが恐いんでしょう」
※
「そのとき初めて、あの方が身じろぎし、かすかな悲鳴をあげました。はっといたしましたが、すぐに女があの方を痛めつけたのではないことがわかったのは、女があわてて、ごめんなさい、と口走ったからです。どうやら夢の中であの女は、苦しめていたあの方の身体のどこかにうっかり強くふれてしまったらしかった。よりそうように。抱くように。あの方は女のわびるのを聞かなかったように無視した。しばらく息をととのえていてから、信じられないほど強い調子でお聞きになった。話して下さい、イザナミ。あなたの望みは、何なのですか?」
※
「女が答えないでいると、あの方は重ねてきっぱりおっしゃった。イザナミ。私があなたの望みをかなえようとして、どんなにひどい目にあったとしても、私を愛してはいけません。それを決心して下さい。約束して下さい。そして、その上で、私に、あなたの望みを教えて下さい。それならばいいでしょう。せめて、聞かせて下さいませんか」
※
ある者は手をにぎりしめ、ある者は額に手をあててうつむき、ある者は思わず知らず身をよせあう一同を、見るともなく見て、タケミカヅチは低く語った。
「はじめはあの女が、歌っているのかと思った。誰かに聞かせるのではなく、自分に語りかけるように。一人を私は殺した…女はそう歌った。一人は私を殺した…またそうも歌った。くり返し、くり返し。気がつくと、やがて、ことばがまた変わっていた。殺した子には許しを乞うて…殺された子には許しを告げて…たとえ答えは返らなくても…たとえ届かなくても…二人を抱きしめたい…幸せに生きつづけて…この世界のどこかに、二人が住む場所を作ってやって…女はずっと、いつまでも、くり返し、歌い、語った。しみ入るように口ずさみつづけた」
※
数人が、はじかれたように顔をあげる。目と目を見交わす者もいた。「いつ歌が終わったのか私にはわからなかった」タケミカヅチは言った。「いつ、歌以上の調べのように、深い静けさがへやの中に満ちていたのかも」
※
「ワカヒコさまの声がした。まるで何でもないことのように、静かさの一部のように口にされた。そのお二人をお探しして、幸せでいるお姿をごらんに入れればいいのですね? けれど女は答えた。私はまだ何も、おまえに頼んではいませんよ。どこかしょんぼりと、とても悲しげに。ワカヒコさまはおっしゃった。成功しても私を愛してはいけないが、失敗しても気になさることはない。使い捨てて、忘れて下さればいいのです。女は答えた。おまえにはわかっていない。何ひとつ、わかってはいないのです」
※
「では、説明して下さい。ワカヒコさまはおっしゃった。苦しみも痛みも限界に近いどころか、とっくに限界を超えているかもしれないのに、その声も口調も、どこか自信に満ちて明るく、気軽でさえあった。女の方の声こそが、暗く悲しく、今にもとぎれそうだった。孤独ということを知っている? 女は言った。あらゆる人と世界を敵に回して、たった一人でいつまでも立ちつづけることが、どんなものかわかっている? 誰からも理解されない。この世のすべてから、うとまれる。どんな答えも返らない。どんなに耳をすましても。そのままに立ちつづけ、そのままに生きつづけ、それが永遠に続くことが、どういうことか知っているのか? それだけではないのだよ。少しでも味方になって、心をよせてくれた人たちが、こわれて、疲れて、すりへって、目もあてられない怪物になって行くのを、おまえはその目で見るのだよ。あの二人を探し、見つけ、守り抜くというのは、そういうことなのだ。おまえにそれができるだろうか? たかが夢の中で五体をひきさかれるのとはちがうよ。お前はこうしたことのすべてが、本当にわかっているのだろうか?」
※
「けれどあなたは、それに耐えて来られたのですよね? ワカヒコさまは言い返された。たったお一人で、これまでずっと。すると女の声がまるでむせぶように、かすれて裏返った。そのことが一番私を苦しめるの。女は叫ぶように言った。だって私は選べなかった。この生き方しか選べなかった。選択の余地はなかった。だからこうするしかなかったの。それだから、あきらめもつく。おまえはそうではないでしょう。おまえは選ぶのだよ。こんな生き方を。アメノワカヒコ。タカマガハラの将軍。すぐれた戦士。愛される若者。どこからどこまで輝かしい人生。おまえはそれも選べるのだよ。そうしたところで誰もおまえを責めはしない。幸福で、満ち足りた、うしろめたいところのまったくない人生。それを捨てて、私と同じ生き方を選べなどと、私には要求できるわけがない。女はくり返した。私はしかたがない。あの二人を生んだ母親だから。けれど、私以外の誰かに、そんな生き方を要求はできない。そんな要求は決してできない」
※
コノハナサクヤが抱いたホスセリの、やわらかくうずまく髪の中に顔を伏せた。タカヒメが、かすかにおびえた声で聞いた。
「ワカヒコさまは何とおっしゃったのですか?」
「お答えにならなかったのです」タケミカヅチは言った。「さっきまでとちがって、どこか迷っておられるようにもお見受けしました。それが女にも伝わったのかもしれません。何となく私は、女の方が話を終わらせたくないと思っているように感じました。村や町との交渉でもそういうことが、たまにあります。行きづまって、こちらの手札がなくなって、交渉決裂、戦闘しかないとあきらめかけていると、ふいと相手が思いがけない妥協案を提案して来たりすることが」
※
「あの女が、イザナミさまが、アメノワカヒコさまを愛していたかは、そのときも今もわかりません。しかし何がしか、ひかれておられたのは、まちがいない。少なくとも興味は感じておられたのでしょう。長い沈黙の続いたあとで、攻勢に転ずる気配さえ見せて、女は言いました。もしもおまえがどうしても私の望みをかなえたい、私のためにそこまで犠牲を払いたいと言うのなら、それでおまえにどんな得があるのか教えておくれ。私に愛されないでいい、使い捨てにしてほしいと言うなら、いったい何のために、そこまで自分を捨てるのか。その理由がわかったら、私も考えまいものでもない」
※
「おまえはイザナギもタカマガハラも、そこまでは愛していないね。女は静かに言いました。仲間たちのことも、部下のことも。少なくとも、そこまで何もかも投げすてて、何かにつくすようには見えない。むろん、私を愛してもいない。だったらおまえの願いは何なの? かなえたい望みは何なの? 今度はおまえが、それを私に話す番だよ」
「ああ、さすがはイザナミですね」うめくようにコトシロヌシが言った。「ワカヒコは何と言ったのです?」
「やっぱりお答えになりません。何やらひるんでおられる気配も感じました。これまで一度もお見せになったことのない、とまどっておられる表情がお顔のどこかに見えました。けれど女は、それにつけいる気配はなく、むしろ優しく暖かい調子で申しました。今さら力づくで痛めつけて、おまえの本心を聞き出そうなんて思ってないよ。それで口を割るようなおまえでないことは、もうよくわかっている。ただ、おまえが私に協力することで何を得ようと思っているのか、それを知らせてくれない限り、私はおまえを信用できない。私の望みは託せない。それを考えて返事をおし。あの二人をさがして幸せにしてくれて、おまえが手にする見返りは何なの?」
「しかしそれは…」コトシロヌシが感心した。「ある意味、最高の脅迫じゃないですか」
「まさにそうでしたな。ワカヒコさまは屈服しました。あきらめたようにため息をついて、…むだなことが嫌いなんです、とおっしゃった」
※
「はあ!?」ほとんど全員がぽかんと口を開けた。
「まあ、たしかに―いつも言ってたことではあるが」タカヒコネが口ごもる。
「女も驚いたのでしょうな。何ですって?と聞き返して来ました」
「まあそりゃそうだろう」
「人の憎しみ、争い、恨み、悲しみ、そんなものの数々が、いつも、めんどうくさくって」
「おいおい」
「本当にそう言ったのか? 長の年月、憎しみや悲しみや恨みでがちがちにこり固まって生きてきた女が相手だっていうのに」
「イザナミはどうしたの?」せきこむようにタカヒメが聞く。
「そうなの?とおっしゃいましたな」
タカヒコネが吹き出した。
「自分もこの世もなくなってしまえばいいと、ずっと思っているんです。ワカヒコさまはおっしゃった。子どもの時からずっとです。何があったと言うのでもなく、幸せだったのに、それでも、ずっと、いつもです」
※
「女はまた、そうなの?と言ってしばらく考えていました。それから妙に落ち着いた声で、また聞いて来ました。もしかしてイザナギと私が、アメノヌボコからしたたり落ちるしずくで作った、この世界のすべても、消えたらいいと思っている? ワカヒコさまは、はい、としかたなさそうにお答えになり、そもそもアメノヌボコなんかなかった昔に戻ればいいし、いっそタカマガハラもなくなってしまえばいいのにと思ってました、とあっさり言ってのけられました。あの二人をお探しして、お引き合わせして、幸せにしてさしあげて、あなたも苦しみや悲しみを忘れてしまって下されば、世の中のごちゃごちゃが少しは減って静かになる。幸せな人間ほど、他人のじゃまはしませんから、と力の抜けきった口調で、さらさら続けられたのです」
「ああもう」ニニギがほとんど身もだえせんばかりだった。「泣いていいのか笑っていいのかわからない」
「同じく」と言いながらタカヒコネはずっと笑いをとめられないでいる。
「それじゃ私を助けて、あの二人を見つけて、おまえが得るものは、と、女があらたまった口調で問いかけ、ワカヒコさまは、はっきり答えられました。私が得るものは、『無』と『空』です。たとえどんなにわずかでも、それに近づく一歩です、と」
※
「何の感情もこめず、まじめに女は告げました。わかりました。おまえにすべてを託しましょう」