「水の王子」通信(179)
「水の王子 空へ」第十八回
【夜明け】
「気がつくと、夜が明けようとしておりました」タケミカヅチは大きく息をついた。「朝の光の中で見下ろしているとワカヒコさまが、ぽっかりと目を開けました。あんなにお近くでお顔を見たことはございません。夜のように深い、澄んだ黒い目で私を見上げてほほえまれ、ささやくように、いてくれたのか、とおっしゃいました。いつもおそばに、とだけ私は申しました」
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「お水でもお持ちしますかと聞くと首をふって、心配かけたな、もう大丈夫と、まだ少し回らぬ舌でおっしゃって、少し眠るからと言って、そのまま、ことんと寝てしまわれた。安らかな寝息で、ほおにはかすかな血の色が戻り、そっとふとんをかけ直しながらふれたお身体にも手足にも、何ひとつ変わったところはおありではなかった。あの女は、まだお身体の中にいるのか、へやの中か、船の外か、何ひとつわかりませんでしたが、すべてが終わったことを私は知りました。『灰色の町』は解放され、あの方と女の和解は成立したのです。廊下で兵士たちが朝の仕事につこうとして行き来する音が聞こえ始めており、一刻も早くこの知らせをタヂカラオに伝えようと、私はそのままそっと、おへやを後にしました」
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「イザナミの気配はそれっきり消えたの?」タカヒメが聞く。
「まあそこはいろいろありましてな」タケミカヅチは手のひらでほおをなでた。「その後数日まだずいぶんとお疲れのようでしたから、打ち合わせがあるからと皆には言って、夜はおへやに誰も来させず、少しでも眠っていただくようにしておりました。手足がこわばって動きもぎごちなかったから、さすってさしあげると、いい気持ちだと喜んでおられましたが、うとうとしながら、ぽつりぽつり、その指が最初に切られたんだよねだの、足首がねじられて折られた時はだのとおっしゃったりするから、こちらも生きた心地がしませんでした」
「あなたに甘えて言ってたのかな」
「そういうお人柄ではございませんので、今思えば私をからかっておられたのかもしれませんな。聞いていて耐えられなくなり、つい私が、まったく何という女でしょうかとののしりますと、まだ私の中にいるかもしれないから、きっと聞いてるぞと注意されました。聞かせてやりたいのですとお答えすると、今度はおまえにとっつくかもしれないよと脅かされるので、私は思わず申しました。そうなったらどんなにいいかと、本当に何度思ったことでしたかと」
タケミカヅチはちょっとことばを切った。
「そうしたら、少し黙っておられてから、夜が明けるとほっとしたよと、眠そうな声でおっしゃった。身体のいろいろがなくなってしまうと、これでもうその部分は何も感じないですむと思うのに、朝になるともとに戻ってしまうから、がっくりするんだけど、それでも長い暗闇の中で時間の見当もつかずにいるとき、夜明けが来るとわかるとやっぱり安心した。そこの扉が開いて廊下の光が見えて、おまえが入ってくるのが何となくわかるんだよ」
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「それですから、一晩中おそばにいると申し上げましたのに、と言うと、冗談じゃないよ、それでおまえやタヂカラオが疲れて昼間の戦いでへまでもしたら、この船もタカマガハラもどうなるんだいと、半分眠りながら、まじめに言い返されました」
「あなたはそれで、無事だったんだね? とっつかれたりはしなかった?」
「まあその翌日、甲板で転んで腰を少々傷めましたが」
「やっぱりイザナミは怒ったのか。君たち二人の結びつきの強さに、やきもちをやいたのかもしれないな」
「ワカヒコさまの中にいたら、きっとそれもよくわかったでしょうしね」コノハナサクヤがため息をつく。「ずっと、お淋しかったんだろうし。しばらくでもワカヒコさまをひとりじめしておきたかっただろうし」
「どうですかなあ。あれは単に掃除係が甲板の水気をきっちり拭き上げておらなかったせいだと、私は今でも思っとります」タケミカヅチは言いはった。