「水の王子」通信（１８２）

「水の王子　　空へ」第二十一回（最終回）

【若葉の中で】

漁師たちの予報はあたって、その翌日は朝から雨だった。ツクヨミの店も客は少なく、あちこちに置かれた貝の灯皿の中で、赤く小さい火が燃えている。
　「こんな日の船の上は大変でしょうね」コトシロヌシが言った。
　「まあ、雨雲から出てしまえばいいのですからな」タケミカヅチは笑った。「雷のひどい時、帆柱のあちこちに青い光がとまるのも、ワカヒコさまはけっこうお好きでいらしたですよ」
　「それにしても、こんな雨の中を来ていただいて何だか申し訳ないような」コノハナサクヤも気にした。
　「こういう日は大して仕事はないんですわ」タケミカヅチは手をふった。「それに、アワヒメさまが、そろそろ東の方を見回りたいと言っておいでで、しばらく来れそうにないし、ワカヒコさまの話だけでもその前に一段落つけておきたかったですから」
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　「と言っても、もうお話することはほとんどありません」タケミカヅチは言った。「船を下りられてからは、めったにお会いする機会もなかった。最後にお目にかかったのは、ちょうど今ごろの季節で、若葉が盛りのころでした。今はもうなくなっておるようですが、二本あった川の細い方のほとりで、小さな木の長椅子がおいてあったのに二人で座って、しばらく話をいたしました。川の水面が木漏れ日をはねかえして光っていたのを、昨日のことのようによく覚えております」
　窓の向こうでは静かに雨がふりつづいている。入り江も岬もかすんでいた。
　「タカマガハラにはもう戻られないのですか、とうかがうと、あの方は柄にもなく、少し恥ずかしそうに目元で笑い、イザナミと私が初めて口をきいたとき、そばにいてくれたっけな、とおっしゃった。はいとお答えすると、それじゃ私が、何もかも消えてタカマガハラもなくなればいいと、ずっと思っていたと言ったのも聞いたんだね、とおっしゃいました」
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　「うかがいましたとお答えすると、ため息をつかれて、それでもやっぱり、とおっしゃいました。そんな中でもタカマガハラは、私には一番住みやすいし快い世界なんだよ。すっきりしていて、空気が澄んで、人も少なく、いつも静かで。ああ、そうだとも、私は今でもタカマガハラの戦士だよ。多分死ぬまでそうだろう。いつか、また帰りたいけどね。空の上の、あの国に。とても素直に、そうおっしゃった」
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　「それでもここにとどまられるのは、イザナミさまとのお約束のせいですか。私はそう聞いてみた。それもあるけど、とワカヒコさまはおっしゃって、また少し笑われた。こんなかたちでイザナミさまとひとつになってしまったことを、イザナギさまはきっと許して下さらないだろう。あんなに愛していた人と、こんなことになってしまった私のことを。私はなぜかわかりませんが、ごくあたりまえに頭にそのとき浮かんだことを申し上げたのです。それでしたら、あなたさまがイザナミさまとひとつになったままで、イザナギさまと愛し合われたらよろしいのではございませんか」
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　「あの方は、びっくりしたように息をのんで、目を見張って私を見つめられました。特におかしなことを申したつもりもなかったので、私が黙って見返しておりますと、あの方は次第に笑顔になられて、考えたこともなかったよ、おまえはいつからそんな突拍子もないことを思いつけるようになったんだい、と何だかうれしそうに、からかうようにおっしゃった。そんなにおかしいことですかなあと申し上げると、あの方は若葉の香りを吸いこむように深々と息をつかれて、タカマガハラも変わるのだねえと、ひとり言のようにおっしゃいました。どこか淋しそうに。そのくせおかしそうに、楽しそうに」
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　「あの方も少し変わられたようにお見受けしておりました。どこかやわらかく、素直になられて…真新しい白い衣が少し汚れて色あせて肌になじんで来るような…人間らしくなられた感じがしたのです。もちろんそんなことを口にするわけにも行かず黙っておりますと、それと似たことを、あの方の方から口にされました。なぜだろうね。自分でもふしぎなんだが、この村に来てから私はなぜか、もうすべてが消えてしまって何もない世界に、それほどあこがれなくなった」
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　「そうなのですかと私が言うと、なぜか自分でもわからないのだけど、と、あの方はくり返された。ここにいると、ヒルコやハヤオやオオクニヌシを見ていると、何だかそれどころではなくなって来る。彼らは皆、とてもわかりやすくて普通のようで、しかも、とらえどころがない。守ろうにも戦おうにも、どこから手をつけたらいいのか、どこにも似ていないから、とてもわかりにくい。どうやら、この村を守っているのが結局はやっぱりオオクニヌシらしいというのは、だんだん見えて来たんだが、果たして彼がどのくらい頼りになるんだろうね。彼は皆が思っているより、多分ずっと賢く強いけれど、危うさもありそうだし、とにかく彼を守って支えていなければ、この村も守れないのじゃないかって気がしてならないんだよ」
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　「それをあなたがなさらなくてはならないのですか、と申し上げると、どこかあきらめたように軽やかないつもの調子でおっしゃいました。だって私にやれなかったら、多分誰にもやれないよ」
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　「何となくその時に、あの方を失った気がいたしました。あの方ご自身はお気づきになっていなくても、もうタカマガハラに戻られることはないのではないかと感じました。たとえこの先お目にかかることがあるにせよないにせよ、これでお別れだろうなとあの時私は知りました」
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　淡い光に包まれた店の中、一人ひとりの顔も姿もおぼろげにかすんで溶けあっていた。かつていた人々や、まだいない見知らぬ人々が、その中にひっそりと、まじりあって、いっしょに耳をかたむけているようだった。タケミカヅチのいつもと変わらぬおだやかな声が、その上を静かに流れた。
　「風が吹いて来て、私たちの回りで若葉がざわめきました。私がおいとまを告げて立ち上がると、あの方も立って、私を見つめられました。あのよく晴れた春の日に、気軽に甲板にかけ上がって来られた時と、少しも変わっておられなかった。何か言おうとするように、わずかに唇を動かして、閉じられた。あの方にもきっとわかっておられたのです。私どもがともに過ごした日々はもう終わり、船の上で私たちがお会いすることはもうないだろうということが。黙って、笑いあって、軽く一礼して、私たちはそのまま別れました。若葉がそよいで輝いた。川はきらめいて、さざめいていた。お目にかかった、それが最後でございました」

水の王子・空へ　　　完　　　　　　　　　　　　　　　　　２０２３．５，１，