1. TOP
  2. 岬のたき火
  3. ミーハー精神
  4. 「水の王子」通信(184)

「水の王子」通信(184)

「水の王子  空へ」おまけ(1)

【水のほとりのある幻】

あたりは霧に包まれていた。朝の光がにじむように、その中に広がっている。あたりは静かで人影は見えない。物音も聞こえない。
 時と場所も定めがたい、このようなあわいに私はふっと鏡からぬけ出して外を歩けることがある。鏡の持ち主が眠っているのか、何かのはずみに気がゆるむのか、つかの間私は自由になる。だが、それをうれしいとも、もはや思わない。むしろ、ものうい。
 なだらかな坂を下ったとき、うす水色に輝くすきとおった流れのほとりに、誰かが立っているのを見た。
 肩にかかる黒髪と、すらりとした姿に見覚えがあった。私が近づいて行くと、ふり向いてほほえんだ。
 どこかで見た若者だ。それでいて、それはまごうかたなき彼女だった。なぞめいた笑いを浮かべた口もとも、やわらかくけぶるまなざしも。
 ずっと私が求めていたもの。
 ためらわず近づくと、彼女は私に向き直って、昔と同じように軽く顔をのけぞらせて、首をかしげた。抱きしめると暖かいひきしまった手足と身体は若い男のものなのに、そのしなやかな手ざわりのすべては、彼女のそれにちがいなかった。
 「君はたしか」私は言った。「将軍ではなかったか、タカマガハラの」
 「アメノワカヒコ」明るく澄んだ声が答えた。「そしてヨモツクニのイザナミ」と、よく似た声がそれと重なった。「あなたの妻です」
 抱きしめてほおを寄せると、ゆたかな冷たい髪が私の顔をなかばおおった。長い口づけは私に忘れていたものを一度によみがえらせた。海のざわめき。陽の光。風の音。草の匂い。何よりも彼女の香り。
 「生きていたのか」私は言った。
 「いいえ」と若者の声が私の耳をくすぐった。「まだ今は」
 そして力強い腕が私をひきよせ、首に回され、ひしとすりよせた顔の目が真剣な必死の色を帯びた。
 「あなた」彼女の唇が動いた。「鏡を割って」
 「無理だ」私は答えた。「無理なのだ。あれがなければ私は生きられない。タカマガハラもこの世界も守れない」
 「それなら、なくしてしまえばいい」若者が昔の私そっくりのみずみずしい声で告げた。
 「今の私に、もうその力はないよ」私はつぶやく。
 「いいえ、あります」彼女が強く首をふる。「あなたにはまだその力があります。最後まで、あきらめないで。あなたにはできます。私たちがこの世界を作った。なくすことだって、できるはず」
 私は彼女を抱きしめる。ほっそりとした若者の身体とともに。霧はますます濃くなって、私たちを包んで行く。

Twitter Facebook
カツジ猫