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「水の王子・丘なのに」(10)/215

「水の王子・丘なのに」(第十回)

【ばらの咲く町】

タカヒコは、ふかふかとやわらかいふとんの中で思い切り手足をのばして、伸びをした。窓の下のどこか遠くで女たちのやわらかい楽しげな笑い声が聞こえる。遠い波の音がそれに入り混じり、そよそよと開け放しの窓から吹き込む涼しい風には、夜明けと花の香りがした。
  何てすばらしい朝なんだ。ひとりでに、そんなことばが口からこぼれそうになった。そして毎日何と気持ちよく、まるで大きな緑の葉っぱの上をすきとおった露がころころすべって転がって行くように楽しく過ぎて行くんだろう。
 クラド王も家来たちも、それは親切だった。心から喜んでいるのが伝わってきた。毎日の食事はぜいたくで、手がこんでいて、魚も野菜も花のように美しく調理されていた。「お口に合うといいんだが」とクラドが心配するのでタカヒコが、「タカマガハラの大味な食事よりずっとすばらしいですよ」と言うと、クラド王も給仕している家来も目を輝かせ、「前にも君、そう言ったっけなあ」とクラドははしゃいだ。「そんなにひどいのか、タカマガハラの食べ物って」
 「食べるものや着る物については、ぜいたくはしちゃいけないって考え方ですから」タカヒコは笑った。
 「だから皆、強くて立派になるんだなあ」クラドは感心した。「この町の者は見てのとおり、私をふくめて、皆ひよわでねえ」
 たしかにクラドも家来たちも他の住人も、色が白く、手足もきゃしゃだった。けれど決して不健康には見えなかった。しぐさも動きも、皆踊っているようになめらかでしなやかだし、花の咲き乱れた庭園を手入れし、枯れ枝を集めて燃やし、新しい苗を植えるその姿は、むしろてきぱき力強い。クラド王その人にしてからが、まるで少年のようにタカヒコをひっぱって宮殿や海岸や花畑の中をかけまわっていた。
 「私とちがって、妃は皆といっしょにもっと畑や花の手入れもするんだがねえ」クラドは言った。「私は手ぎわがよくなくて、まちがったことばかりするから、何もしないで遊んでいて下さいと頼みこまれる始末だよ。彼女がいたら、もっとみごとな庭や花を見せられたのにな」
 バラの花にからまったつるくさをひっぱってちぎって、手にまきつけながら、彼はちょっと淋しそうだった。
 「あなたもいっしょに旅に行っちゃえばよかったのに」タカヒコはからかった。
 「女たちだけの方が楽しい、なんて言われちゃうとなあ」クラドはすねたように赤い唇をとがらせた。「それにあのころ、ちょうどのどが痛くって、気分もぱっとしなかったし」
 「それはもう、すっかりいいんですか?」
 「うん、多分ね。でもこう毎日日が射さないと、またどっかどうかなりそうだなあ。早く帰って来てほしいよ」クラドは銀色のもやのかかった空を見上げたが、すぐ気をとりなおしたように明るい笑顔になって、タカヒコの腕をとった。「いいさ、妃にも娘たちにも、うんと自慢してうらやましがらせてやる。アメノワカヒコをひとりじめして、毎日遊んだって言って!」
 二人は草の中でとっくみあって転げ回り、木の棒でまりを打ち合う他愛ない競技に熱中し、勝手な規則をいろいろ作ったり変えたりしては、子どものように言い争った。一度雨が降って二人で木かげで雨宿りしているとクラドが「君、何だか変わったな」と言った。
 「え、何がだよ?」
 「昔はもうちょっと、はっちゃけてたのに」
 タカヒコネに教えてもらった方法を今こそ使って、とぼけてみようかともちらと思った。だが、雨の中を声をあげて逃げまどう農夫や農婦たち、ゆれてしずくをまきちらす花々、あちこちにぽかぽか浮かんでは消える虹、そしてクラドのいたずらっぽく若々しいまなざし、それらのすべてがタカヒコの中の何かをつき動かし、つき崩した。新しい、ときめくようなうねりが身体の底からわいて来て、彼はそれに身をゆだねた。いきなり両手を上げて、着ていた服をむしりとるように脱ぎすてて、「こうかい?」と叫びながら裸で雨の中に飛び出した。
 「ああ、そう来なくっちゃ!」クラドも大声で笑って服をはぎとって放り出し、二人は裸で花の中を走り回って、見ていた家来たちの悲鳴と笑い声があたりにうずまくのを聞いた。
 息もたえだえに宮殿まで走って、雨が流れ下る階段の上に二人でのびていると、笑い転げながら侍女たちが乾いた服を持って走り出して来た。
 「まあまあ、またですか!?」年かさの女が叫んだ。「ワカヒコさまがおいでだと、いつもこうして羽目をはずしておしまいになって!」
 「この前よりはまだましですわ」中年女の一人が布で二人の髪をごしごし拭きながら、むせ返る笑いの合間に言った。「この前は、お妃さまと姫さま方もごいっしょでいらしたんですからね、あなた」
 誰もが雨の中で顔をくしゃくしゃにしながら笑っている。虹がまたあたりに、ぽかぽかわき出して、いくつか重なり合って、いっしょに笑うようにゆれた。

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カツジ猫