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「水の王子・丘なのに」(9)/214

「水の王子・丘なのに」(第九回)

【霧の壁の向こうには】

落ち着こう、といくら自分に言い聞かせても、心臓がのどから飛び出しそうだった。足元が変にふわふわした。タカヒコはとにかく足もとの細い小道に集中した。うねうね曲がりくねっていて、一歩踏み外したら沼にはまる。場所によっては底なし沼で、けものも人も上がって来れないと聞いている。
 そんな沼には見えなかった。大きな丸い広い葉と、黄色く小さいかわいい花が散りばめたように水面に広がって、淡い光の中にゆれている。
 背後にはとぎれとぎれに、やわらかい緑色の森があった。その向こうの草原にタカマガハラの船がとまっているはずだが、それもまもなく飛び立つだろう。何が起こっているのかわからない町に、タカヒコを一人残して。
 気がつくと口の中がからからになっていた。タカヒコは肩にかけた荷物の袋を下ろし、竹筒を出して中の水を飲んだ。
 ついでに目を上げて、小道の向こうを見る。
 左右どこまでも見渡すかぎり銀色のもやだった。城壁か山のように視界をふさいでいる。だが心なしかあちこちがほのかに明るく、空の上からふり注ぐ光ととけあっているようだった。ところどころに虹に似た色の流れが浮かび上がっているようでもある。
 遠く、笑い声や話し声がしたようだった。そのもやの向こうから。
     ※
 タカヒコは目を閉じ、自分に言いきかせた。
 こうしていたって、しかたがない。
 たとえ、あの霧の向こうに何があろうとも、ワカヒコとちがって戦う手段など自分にはないにひとしくても、進んで、足をふみこむしかないのだ。
 彼は一息ついて、竹筒をしまい、また歩きはじめた。
 ぽわん、と足もとに小さな七色のかたまりが現れた。見ている内にそれはくるくると丸まりながら伸びて行って、タカヒコのひざのあたりまでの半円の虹になった。道をふさぐかと見えてそうではなく、むしろゆるやかにすべるように、それは先へと移動して行く。
 見つめていると沼の上にもかかるので、うっかりつられると泥の中にひきこまれるぞとタカヒコは気をひきしめた。そろりそろりとついて行くと、虹は次第に淡くかすんで大きくなり、タカヒコが下をくぐれるぐらいの高さにまで持ち上がった。
 笑い声と話し声が、今度はずっと近くで聞こえた。目を上げると霧が晴れてきていて、あちこちがちぎれるように、とぎれており、その間から向こう側の風景も見えた。
 一面の緑の畑。野菜らしい植物より、花が多い。大小色とりどりの花びらが風にそよぎ、その間に淡い黄色や白の衣を着た人々が、笑いさざめいている。明るい紫の衣をまとった、背の高い金色の髪の男が、手をかざしてこちらに目をこらし、「アメノワカヒコ!」と喜びの叫びをあげた。「来てくれたのか!?」
     ※
 回りの男女も、いっせいにどよめく。「行け、行け行け!」と紫の衣の男は叫び、数人があっという間に畑から飛び出し、崖をすべり下り、細くくねったあぜ道をすばやく走ってタカヒコの前まで来た。
 皆、どことなく似ている。ほっそりしていて、金色や栗色の髪。いかつい顔つきや、ごつい身体つきの者もいるのに、なぜかふしぎに、そう見えない。誰もがどこかはかなくて、暖かくて、楽しげな空気をまとっている。そして皆、満面の笑顔だった。「ワカヒコさま」「ワカヒコさま」と小鳥がさえずるように口々に言いながら、彼らはタカヒコの荷物をとり、手をひいて、走るように崖の下まで戻った。
 待ちきれないように草におおわれた石の階段を下まで下りてきていた紫の衣の男が、うれしそうにタカヒコを大きく手を広げて抱きしめ、そのまま上の畑までひっぱりあげた。「食事のしたくを!」と彼が言うのも待たず、数人が一散に畑の向こうに走ってゆく。そこにそびえる優雅で巨大な宮殿が、ここからはもう、はっきりと見えた。
 「クラドさま」女の一人が親しみをこめて、片ひざつきつつ、ことほいだ。「本当にようございました。待っておいでの方が来られて」
     ※
 「本当だ、まったくだ」紫の衣の男、クラド王はタカヒコの両肩に手をのせ、優しい目をさらになごませた。「ちっとも変わらないなあ、アメノワカヒコ」
 「この町もね」タカヒコは笑って応じた。「霧がかかりっぱなしだから、どうなってるのかと皆で心配してたんだが」
 「これだろう?」クラドは情けなさそうに銀色の空を見上げて、ゆったりした袖の片手を大きく振った。「実は、妻と娘たちが少し前から旅に出ていて、カナヤマヒメもお目付け役でついて行っちゃったもんだから。霧や靄を出したり消したりする方法をかんたんだって彼女が言うから安心してたらついうっかりして、出かける前に彼女に聞くのを忘れたんだよ」
 「そんな―」
 「すぐに帰ると思ってたんだよ」言い訳するようにクラドは言った。「でも彼女たち、わりと長く旅に出てしまうこともあるんだよねえ。いくら何でもそろそろ戻ると思うんだけど。さっぱり日もあたらないから、花も野菜も元気がないし、いろいろ困っちゃってさあ、もう」
 気づけば回りの家来たちも、そこはかとなくわずかに笑いをかみ殺している。愛するうかつな王さまが、いつものようにまたやってくれたと、あきらめているようだった。「心配じゃないのか?」とタカヒコは聞いてみた。「旅先で何かあったんじゃないのかとかさ」
 「タクハタがいるから大丈夫だよ。彼女まだ小さいけど、多分この町の大抵の戦士より腕はたつもの。ほら、弓は君が教えてくれたんじゃないか。旅人やよそ者と競っても今まで誰にも負けたことがないんだ」
 「そうだったね」タカヒコはうなずいた。
 「それに、虹が普通に出てるんだから、カナヤマヒメに何かあったとも思えないし。きっと皆で旅を楽しんでるんだよ。それにしたって、そろそろ帰ってほしいけどね。何しろ人手が足りなくて。しょうがないから、回りの村や町とのつきあいもやめて、旅人やよそから来る人にも、しばらく出て行ってもらうことにした。食事の世話も寝床の準備も掃除も警備も畑仕事もまるっきりもう、やる人が少なすぎて」
 「クラドさま、そのへんでもう」商人か農夫か戦士かよくわからない、そのどれと言っても通用しそうな、やわらかい物腰の中年男がほほえんで小声で制した。
 「あ、そうか」クラドはきまり悪そうにした。「あまりそういうこと、よそに知られちゃまずいんだよな。オオトシ、すまない、わかっているよ。要するにワカヒコ、食事も寝床もその他も、きっといつにもまして行き届かないだろうけど、どうか許してくれよね。それが言いたかったんだ。せいいっぱいにできることはするからさ」
 「気にしないで。こっちは君に会えればいいんだ」
 「ああよかった。君はそうだと思っていたけど」クラドは胸に手を当てて、安心したように大きく息をついた。
 回りの男女ももう皆大っぴらににこにこしている。うれしさの余りか泣き笑いのように顔をゆがめている者さえいた。自分が待たれていたこと、歓迎されていること、喜ばれていることが、肌をとおしてひしひしと全身にしみこむようで、タカヒコの心もほろほろとやわらかく溶けていくようだった。
     ※
 それにしたって、どうしよう。
 一方で激しく混乱していた。町に足を踏み入れたとたんに、謎は解け、問題は解決し、与えられた任務は終わってしまったんだけど。このまままっすぐ草原に戻って、タカマガハラの船が来るのを待って、引き返しても全然かまわないわけで。
 そう思うと、体中の力がいっぺんに抜けて、へたへたとその場に座り込みそうで、でもその一方、このまま帰ってしまうわけには、とてもいかないこともわかった。クラド王と町の人々の、人なつこい無邪気な喜びよう。花と虹とにいろどられたこの町のふしぎさ。このまま去ってしまうのは、あまりにも申し訳なく、そして残り惜しかった。
 どっちみち、タカマガハラの船はあと数日は来ないだろうし、とタカヒコは思った。せめてお妃一行が戻って来て、霧が晴れるのを確認するまでは、いてもいいんじゃないだろうか。

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カツジ猫