「水の王子・丘なのに」(11)/216
「水の王子・丘なのに」(第十一回)
【地下からの声】
最初は区別がつかなかったクラドの家来や侍女たちとも、この数日で話をかわす機会は増えた。その日も着替えて外に出ると、花の中で見覚えのある小柄な女官がせっせと枯れた葉や花を切り取っていた。
「早起きだなあ」タカヒコは石垣に手をのせて声をかけた。
「あら、ワカヒコさまこそ」女官は立ち上がって手をはたきながら首をかしげた。「お食事のしたくをさせますわ」
「いいよ。クラドだってまだ寝てるんだろう?」
「ええ。昨日あんなに海で泳ぎなさったから、お疲れみたいで、もうぐっすり」
「彼が起きるまでここにいるよ」タカヒコは石垣に座って足をぶらぶらさせた。「じゃまじゃないよね」
「まあ、まさか」女官はまた花の間に身を沈めた。手際よく、すばやく花をととのえながら、彼女はひとりでに、こぼれるように笑った。
「ワカヒコさまが来て下さって、本当にうれしい」彼女は、つつましさとあけっぱなしが愛らしく入り交じる口調で言った。目を伏せたまま、手はいそがしく動かしながら。
「そう言ってもらえると光栄だが、私だって楽しいんだよ」
「いつもそうでいらっしゃる。それが私たちをどんなに幸せにして下さることか」彼女は大きく息をついて、目を上げた。「どこにいらしても、そうですの?」
「そうとは限らないけど、まあ、それなりにね」タカヒコは石垣をとびおり、女官の血のにじんだ指先を見つめた。「そこ、どうしたの? そのままにしといちゃ、よくないよ」
「ああ、さっきバラのとげで。恩知らずな花ですわ。根もとの草を抜いてやろうとすると決まってこうやって刺すんです」女官はくやしそうだった。
タカヒコは笑ってあたりを見回し、薬になりそうな草を見つけて、もみつぶした汁を女官の指につけた。「これで少しはよくなるかもね」
「あら、もったいない。ありがとうございます」女官は恐縮して、指先を大切そうにもう一方の手でおおった。「前は蜂に刺されて私がお手当してさしあげたこともあったのに、こんなこともお勉強されるんですね」
「ナカツクニっていう村で、そこの医者にいろいろ習ったんだよ」
「あの村によく行かれるんですか?」女官はちょっと目を輝かせた。「たしかコノハナサクヤさまがおいでになる村ですよね?」
「ああ、そうだよ。彼女のこと知ってるの?」
※
女官は熱心にうなずいた。たしかイワスヒメという名だったと、ようやくタカヒコは思い出していた。「私は家を作るのが仕事なんですの」彼女は声をはずませた。「ここでは人が少ないですから新しい建物を作る仕事はそんなにないんですけれど、そのかわり、昔からの建物の修理や改修が多いんです。コノハナサクヤさまのお作りになるお家は、皆それはすてきで美しいって、よくお噂を聞きますわ」
「うん、たしかに住みやすいし、さりげないのに、しゃれてるよね」
「一度でいいから、お目にかかって、いろいろ教えて頂きたくて」イワスヒメはうっとり言った。「この町の建物は古いものほど手がこんでいて、新しいものがなかなか取り込めないんです」
「私が泊めてもらってる建物も、宮殿も、とても優雅で心地よいからなあ」
「あの宮殿も客舎も、作ったのは私の祖母なんです」イワスヒメははにかみながら打ち明けた。「お言葉を聞いたら、どんなにか喜ぶことでしょう」
※
いつか、その内、ナカツクニに連れて行ってあげられるかもしれないし、コノハナサクヤをここに連れて来てもいいしなどと楽しい計画を話し合ったあと、タカヒコは心の赴くままぶらぶらと朝の海岸を歩いた。
華やかな朝焼けが沖の方に紫と紅色のすじを作り始めているが、この崖の上はまだ薄暗い。そんな中、足もとにいつものように小さい虹ができかけているのに気づいて、タカヒコがほほえんで、それを見つめていると、それが風にゆれて、ふるえて、気がつくと低いうずまきのような音が、岩の割れ目から吹き上がってくるのだった。
ひざまずいて、顔をよせると、こだまのようにおどろおどろしく響いているが、どうやらそれは人の声のようだった。
※
「誰かいないの?」その声はそう聞き取れた。「誰か聞いている人はいないのですか?」
かすれ気味の女の声。だが、弱々しいと言うよりは、いらだっていた。人の上に立つ人、命令を下し慣れている人の口調だった。
「誰もいないの? 聞いているなら答えなさい。誰もいないの、え、どうなの?」
同じ呼びかけ、同じ問いをこの人はずっとくり返してきたのにちがいない。その単調さと意志の強さはむしろタカヒコを戦慄させた。こちらの声は聞こえるのだろうか。心もとなかったが、とりあえず、割れ目の底に向かって吹き込むように呼びかけた。
「あなたは誰です? そこはどこです?」
「ああ、やっと!」腹立たしげな中にも、ほっとした響きはたしかにあった。「おまえは誰です?」
少しためらったが、タカヒコは答えた。「タカマガハラのアメノワカヒコ。クラド王の客です」
「アメノワカヒコさま!」相手の声がしわがれて、息をのむ気配がした。「おいでになっているのですか?」
「ええ」
「タカマガハラの人たちも?」
「いいえ、私一人です。あなたはいったい、どなたです?」
しかし、答えを聞く前からタカヒコはもう、自分がそれを知っているような気がした。はたして声は、せきこみ気味に、はっきりと告げた。
「私はカナヤマヒメ。この町の王の友人です」