「水の王子・丘なのに」(15)/220
「水の王子・丘なのに」(第十五回)
【地下牢の女性】
この町は地下牢までも繊細な優美さをたたえていないと気がすまないらしい。クラド王がつけてくれた十数人の家来とともに、海岸の崖の下に広がった迷宮のような道を歩きながら、タカヒコは思った。以前に訪れたヨモツクニの地下のじめじめとした通路とは似ても似つかず、足もとには白い泡と濃い緑の波が織物のようにからまるゆるやかな波が寄せ、砂は細かく金色に光る。太く細くさまざまな柱が自然にできて並んでいる、あたり一面の壁や天井は金や青や茶がうねりあって、珍しい模様のような筋を見せていた。海の方から入ってくるらしい風は、さわやかに心地よく、陽の香りを漂わせている。
男女十数人の家来たちは、いずれもクラド王の側近の見知った顔だ。イワスヒメもオオトシもいた。皆、静かで無口だった。カナヤマヒメに会うというより、閉じこめて見ないでいた現実に向かい合うのが、深い悲しみとなって彼らをおおっているようだった。
「もうすぐ、そこです」主だった一人が低く言った。
※
ゆるやかな曲がり角を曲がると、そこには格子がはめられた大きな洞窟があった。奥は広く、どこからか射し込む光で、中は明るい。入り口も天井から床まで太い格子があるだけで、壁でふさがれてもおらず、広く見通しがよかった。
足音を特にかくすでもなく、彼らは歩いて来ていた。それで、いつもの波音とはちがう、人の気配を聞きつけたのだろうか、彼らが格子の前に立ったとき、奥の方から銀色と赤の衣をひるがえすようにして背の高い人影が早足で近づいて来た。
カナヤマヒメとひと目でわかった。家来たちが皆後ろに下がってタカヒコの背後にひかえたので、彼女は彼らにはちらと目をやっただけで、タカヒコと正面から向かい合って立った。
「アメノワカヒコ。お久しぶりです」崖の上で聞いたより、ずっとはっきりした強い声だった。「遅かったではありませんか。クラド王は客人のあなたを迎えによこしたの?」
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彼女は半白の髪を、それなりにきちんと編んでたらしていた。衣も乱れていなかった。いかついが目鼻立ちのはっきりした重々しい顔は、女王と言ってもおかしくない。クラド王よりよほど支配者のように見える貫禄だ。
圧倒されてひるんで、タカヒコはしばらく口がきけなかった。それが逆にこちらを重々しく見せたのかもしれない。カナヤマヒメは肩をゆすり、せきばらいした。
「それで、クラド王は何と?」
「お迎えに上がったのではありません」タカヒコはとりあえず、そう告げた。「王の、あなたへのお怒りはとけていないようです」
「何ですって?」カナヤマヒメは無邪気なほどにびっくりした。「王が私に怒っている? なぜです? 理由を聞きましたか?」
話し始めてほんの数秒、見つめ合ってほんの数秒。なぜかタカヒコの身体から、この女性への畏怖や恐怖がすうっと消えた。タカマガハラやナカツクニで会ったいろんな人たち、いや、クラド王をはじめとした、この町のすべての人より、カナヤマヒメは単純で正直で、人がいいようにさえ思えた。
※
「あのですね」彼は自分が他ならぬアメノワカヒコ風の口調に、自然になっていることに驚いた。「あまりにお怒りが強くて、理由も聞かせていただけなかったのです。それで私も困ってしまって、お許しをこうにしましても、どこからどう手をつけたらいいのか、これがもうさっぱり」
背後で誰かが小さく笑いをかみ殺したような気配がしたのは気のせいか? どっちみちカナヤマヒメはそれにはまったく気づかなかった。
「信じられない」彼女は言った。「そんなことって、ありますものか?! 私がいったい、何をしたと言うのです?」
「お妃がタヂカラオの町からお帰りになったとき、あなたがおっしゃったおことばの何かがお気にさわったようなのですが」タカヒコは手っ取り早く本題に入ることにした。「お心あたりはございませんか?」
「何も」カナヤマヒメは即答した。「ふつうのことしか言ってませんよ」
背後で何かがうごめく気がした。わけもなくタカヒコはぞっとした。とぐろをまいて片目を開けていた巨大な蛇がゆっくりと鎌首をもたげはじめているようで、目の前のカナヤマヒメより、はるかに危険に感じられた。
多分私は、臆病で無力な分、危険を察知する能力はアメノワカヒコさまより強いかもしれない。頭のすみでちらと思った。背中にじわりと寒気が広がり、いっさんに逃げ出すか、せめてふり返って背後を確認したかった。必死で足をふみしめて、彼はその誘惑に耐えた。
「本当にお心当たりはございませんか? お妃を、カヤヌヒメをなぐさめるか、力づけるかなさろうとして、かけたおことばではないかと思うのですが」
「覚えてませんよ、そんなこといちいち。どちらにせよ、大したことではないはずですよ。思いつくままとっさに言ったことでしょうから」
後ろではっきり、誰かが足をふみかえた音がした。低くうめくような声も聞こえたようだった。タカヒコは目の前のカナヤマヒメに集中しようとした。明らかに彼女は何も覚えていない。クラド王も、あたりまえの、どうということばではなかったと言っていたのだから、それが当然かもしれない。
低い声が背後でした。
「あなたがあんまりタクハタをかわいがりすぎたから、それで、あの子は死んだのよ」
なお続けようとして、息をつまらせるように声はとぎれたが、同じようにかすれた別の声が、ひきとって続けた。
「せめて、そのつぐないに、生き残ったミズハをタクハタの分もかわいがってやりなさい」
かすかなあえぎやうめきのような音がいくつもそれに重なって、それきりまた沈黙が広がった。
だがタカヒコは先ほどまでの寒気と反対に、背中が焼き焦がされるような熱さを感じた。むろん、錯覚とわかっていた。炎などないと。気のせいだと。それでもその沈黙の中に火がうずまいていた。
※
「そう言えばそんなことも言ったかしらね」カナヤマヒメはタカヒコが内心おろおろしたぐらい、落ち着いてうなずいた。「ありがとうね、教えてくれて」と彼女は家来たちに向かっておうように、感謝のことばさえかけた。「たしかにそうね、そういうことを言いましたね、私は。ですけど、それがどうしました? 本当のことでしょう? 誰でもふつうに言うことですよ」
「そのおことばが、お妃さまを殺しました」再び誰かの声がした。「苦しめて、この上もなく」
「まさか」カナヤマヒメは、あっけにとられたように笑った。「あの人、そんなに弱くはないわ」
「いつもなら、これまでなら」別の声が、うめくように言った。「あなたのそういう、おことばの数々を、王もお妃もいつも笑ってうけとめていた。傷ついても、苦しんでも、優しさと笑いでそれを包んで、溶かして、幸せを守って来られたのです。あなたはそれにも気づかずに、平気であのご一家を、私たちを、この町を、こわし続けてこられたけれど、お二人のおかげで何とか無事にすんでいた」
「でも、あのときはちがいました」また誰かが低く言った。「あの時だけは、あなたは、ああいうことだけは、言ってはならなかったのに。お妃さまは弱りきっておられた。だから、あなたのあのおことばを、うけとめても、忘れても、笑ってもしまえなかったの。針のように心に突き刺したまま、生きて行くしかなかったの。決して弱い方ではなかった。でもあのときは、いつもの力が失せておられた。そんなことさえ、あなたにはわからなかった。考えてみようともなさらなかった。自分のしたことに耐える力を、誰もが備えておくのがあたりまえと、いつも思っておいでだったから」
※
「何なの、これは?」さすがにカナヤマヒメは事態のただならなさに気づいたようだ。立ちすくみ、そしてタカヒコに怒りの目を向けて来た。「アメノワカヒコ、あなたはこの下々の者たちに、こんな無礼を許しておくのですか?」
ようやく半身ふりむいたタカヒコに、新しい声が容赦なくおそいかかった。「アメノワカヒコさま、あなたにも私たちはうかがいたいことがある。タカマガハラはいったいどうして、こんな女をここまでつけ上がらせたのです? よりにもよって、こんな女を、この町の代表として、ずっと大事にし続けたのです? この町で今起こっていることは、この女を大切にして来たタカマガハラのせいでもあるのですよ!」
そうだ、そうだ、と低い声が地鳴りのように重なった。「もしこのまま、この町が、王と私たちが立ち直れなかったら、タカマガハラはどう言い訳をなさるんです?」怒りにふるえる声がつづいた。
おとなしい、かよわい、優しいこの町の人たちは、こんな荒々しさも秘めていたのか。呆然としながらも、タカヒコは、それこそ私も聞きたいことなのだが、と心の底でうめいていた。答えの一部を私はきっと知っている。あの鏡のせいだ。あれがあるからタカマガハラは、この町もカナヤマヒメも、手放すわけには行かなかったのだ。
もちろんそれは今は言えない。とりあえずタカヒコはカナヤマヒメに向き直って「格子がありますからご心配なく」となだめた。「あなたは私より安全ですよ」
「冗談言ってる場合ですか?!」カナヤマヒメは憤然としたが、逆に家来たちの方は数人が苦笑して、少し皆、われに返ったようだった。「落ち着け」とオオトシがおだやかに両手で皆を制し、タカヒコに一礼して「お許し下さい」とわびた。「とは言え、ここまで申したからには、失礼ついでに、私たちがこれほどまでにとり乱すわけを、どうかわかっていただきたいのです。カナヤマヒメさまにもお聞き願いたいのです」
※
「草原からこの町に花嫁としておいでになった、少女のようなお妃を私は存じ上げております」オオトシはやわらかい、静かな声で言った。「それからずっと、お仕えしておりましたから、わかります。カナヤマヒメさまの、あのおことばさえなかったら、お妃はタクハタ姫を失った悲しみからも、きっと立ち直られました。自由で、のびやかな、強い心をお持ちの方でしたから。きっとミズハ姫をいつくしんで、それにお心をいやされ、クラド王とともに明るい幸せな毎日をまた築かれたにちがいない。悲しみをその中に織りなしながら、より豊かな日々を。私はそれを今でもこの目で見るような気がいたします」
家来たちの中からうめき声がかすかに起こり、数人がその場に座りこむ気配がした。
「けれども、そうはならなかった。一番の救いになるはずのミズハ姫を愛することが、お妃にはどうしてもおできにならなかったからです。タクハタ姫を愛した罰として、つぐないとして、ミズハ姫を愛さなくてはならないと思うだけで、お妃にはミズハ姫が罪人を罰する責め道具にしか見えなかった。そうしなければならないと、自分に言い聞かせ、そうしようと努力なさるほど、ミズハ姫への愛はさめ、憎しみまでが生まれて、育った。あの方はそれを恥じた。母として、人間として。だから王にも打ち明けられず、日夜一人で戦われた。のたうちまわって、苦しまれた。おそばにお仕えした者は皆、それを見て知っております。あの方が狂われ、こわれて行くさまを、この目ですべて、見守るしか私たちにはできなかった」
「思いあまって、クラド王にお伝えした時は、もう遅かったのです」イワスヒメが告げた。「そのときはもうお妃は、愛することどころか憎まないでいるお力も、もう残っておいでではなかった」
※
「タクハタさまをかわいがりすぎたというのも、お妃が自分を責めつづけたひとつでした」イワスヒメは、かみしめるように続けた。「そういうこともあったかもしれません。タクハタさまは、とてもかわいかったから。でも一方で、ひかえめで、ものしずかなところもおありだった。元気いっぱいで甘えん坊のミズハさまに、いつもお母さまやお父さまをゆずっておいでになるようなところがおありでした。だから、タクハタさまは、ことさらに、こちらから引き寄せて、かわいがってさしあげないと、ミズハさまばかりお世話することになるというのは、私たちおつきの者も気をつけていたことなのです」
イワスヒメは苦々しげに、かすかに笑った。
「何も知らない者が見れば、人によってはそれがタクハタさまだけを大切にしているように見えたりしたこともあるのでしょう。特にご病気になられてからは、ずっとタクハタさまにかかりきりになられたのは、やむをえないことでしたから。それでもやっぱり、かわいがりすぎて死んだと言われてしまったら、お妃は、自分がタクハタさまを大切にしすぎたのではないか、愛しすぎたのではないか、それが彼女を殺したのではないかと、自分を責めて責めて、責め続けました。もっと愛してやればよかったと悔やむ苦しみより、それははるかに大きかったと思います。だから、その罰としてミズハさまを愛しろと言われるのも、やむを得ないと思われてしまった。はね返す力が残っておいででないままに、いつも堂々めぐりの輪の中で、どんどん苦しみの深みの底にはまりこんで行かれた」
イワスヒメは家来たちからはなれて、一歩進んだ。タカヒコと並んで立ち、まっすぐにカナヤマヒメに目を向けた。
「私は、あなたを傷つけることばがほしい」彼女は静かな声のまま言った。「あなたがいつもそうして来たように、ふだん使いの何でもないことばを、むぞうさに組み合わせては次から次へと唇からくり出して、それだけ人を傷つけることのできるような、そんなことばを見つけたい。けれども私の中にはそれがない。この町の人たちの誰もが、そんなことばを知らないし、持たない。それがくやしい。情けない。どうやってそれだけ人を苦しめて恐ろしい死にいたらしめるまでのことばの組み合わせを見つけられるのでしょう? あなたの頭はどうなっているの? 心はどうなっているの?」
※
「イワスヒメ」タカヒコはかろうじて制した。「もうやめろ」
「ワカヒコさま」イワスヒメはカナヤマヒメを見すえたまま、細かく身体をふるわせていた。「私たちが、この町が何を失ったか、あなたはご存じではない。カヤヌヒメさま。タクハタさま。ミズハさま。そしてクラドさまも今はもう、生けるしかばね。それをしたのはこの人が、自分でも忘れてしまっているぐらい、何も考えずに口にしたひと言なのです」
「それでもやめるんだ」タカヒコはくり返した。「お願いだから、もう何も言うな」
「カヤヌヒメさまもそうおっしゃった。もう何も言わないで、イワスヒメ。そうおっしゃった。苦しみによじれた、優しい笑みを浮かべながら。考えないようにしましょう。忘れましょう。そうおっしゃった。けれども、ふたりともわかっていました。決して忘れられないことを。消してしまえないことを。心のどこに閉じこめても、あらゆるところから、この人の、あのことばが、血のように吹き出して、お身体を染めて行った」
「だとしても、お願いだから」
イワスヒメの両肩をつかんで、こちらに向き直させて、その血走って燃え上がる目を見つめてタカヒコは、すぐに見続けるのに耐えられず目を伏せた。イワスヒメの冷たい指がなぐさめるようにそっとタカヒコの手をとって肩からはずし、身を引いて、二人がまた格子の向こうを見たときは、淡い光が降り注ぐだけで、そこには誰もいなかった。
「行っちまいました」吐き出すようにオオトシが言った。「いつもそうです。都合が悪いといなくなる。そして皆が必死で立ち直ったころに、平気ですまして戻ってくる。そしてまもなくまた、はばをきかせるようになる。ずっと、そのくり返しでした」
「呼び戻さなければ」タカヒコは格子をつかんだ。「あの人にだって何か言い分はあるだろう」
「そもそも我々が言ったことを聞いていたかもどうですか」オオトシは首をふった。「聞きたくないときには、ひとりでに耳がふさがるお方のようですから」
「とにかく、あの人は今日、自分の言ったことばを認めました」ぐったりとイワスヒメがつぶやいた。「私たちも戻ることにいたしませんか?」