「水の王子・丘なのに」(21)/226
「水の王子・丘なのに」(第21回)
【妃と将軍】
老婆は粗末な小屋の前で、日なたぼっこをしていた。
タカマガハラの船がおいて行った果物を歯のない口で、もぐもぐとかみしめながら、幸福そうに目を細めていた。こんなものを口にするのは久しぶりだった。せいぜいが、森の木の実を手の届く範囲でもぎっては、かじるぐらいのものである。あの女の子が木に登って高いところのをとってくると言うのをとめるのに一苦労したっけ。いなくなったのは淋しくもあるが、これでまたのんびりできると、ちょっとほっとしたところもあった。
目のはしの草原に大きな白い鳥がふわりと舞い降りたようで、老婆はしょぼしょぼした目をこらした。
タカマガハラの船らしい。それにしたって、とても小さい。やっと二人が乗れるほどの小舟である。まだ若い娘がひとり元気にとびおりて、もう一人の背の高い金色の髪の女が下りるのに手を貸す。そのまま舟の中に戻って、あたりの掃除をしはじめたようだ。
金色の髪の女は一人でこちらに歩いて来た。なめらかにすべるような優雅な足どりだ。たしか数日前やって来て、あの子を連れて行った女だ。おっとりのどかな口調で人々を指揮していた。老婆の前までやって来て、ぽかんと見上げる彼女にほほえみかける。
「この前はおじゃましました」ていねいな口調で女は言った。「私はタカマガハラのアワヒメと申します。引き上げる前にもう一度お礼のごあいさつにうかがいたくて」
※
「そんな、あんた、まあとんでもない」老婆はへどもど手をふった。「立派なものをいろいろいただいた上に、おそれ多いこってす」
「実は少しお聞きしたいことがありましたの」アワヒメは首をかしげた。「私、座らせていただいてよろしいかしら」
「もちろんです。まあ、気がつかんこって」老婆は果物の残りを口に押しこみ、座っていた木の丸太の場所を空け、その上を腰に下げていた布で、やみくもにはたいてほこりを払った。「おめしものが汚れっちまうかもしれないけんど」
アワヒメはほほえんで首をふり、ふわりと優雅に足を斜めにそろえて腰を下ろした。「あのミズハという子を、ここにおいて行った女性ですが、どんな風に見えまして?」
「どんなふうってあなた、白いおきものを着て、いい匂いがして、花みたいにおきれいで」
「悲しそうではなかったかしら? やつれてはいませんでした?」
「そう言やあ、お疲れのようじゃありました。お顔の色も青白くて、熱っぽい大きな目をして、こう、あきらめきったようで、なのに何かに立ち向かってくような、安らかな感じって言ったらええのか」老婆はため息をついた。「このばばがまだ娘のころ、戦いに行く前の若いもんが、よくあんな目をしてたもんだが」
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二人はしばらく黙って、草原をわたる風の音を聞いていた。
「お知り合いだったんで?」やがて老婆が、おずおず聞いた。
「古い友人でしたの」アワヒメはうなずいた。「私はタカマガハラの人間ですが、きっとわがままだったのでしょう、あそこがあまり好きではなくて、よく船に乗せてもらっては草原の村に行って、そこの子どもたちと遊んでいました。そこで彼女に会って、友だちになりました。どちらも気が強かったから、よくけんかもしましたわ。泥の中で取っ組み合ったり、それぞれの仲間をひきいて戦いのまねごとをしたり」
「あんれまあ」老婆はぽかんと口を開けた。「おふたりとも、そんな風には全然見えなさらんのに、まあ」
「大抵は私が負けたわ」アワヒメはほほえんだ。「そして親友になりました。彼女は私の欠点をたくさん直してくれましたし、タカマガハラでは学べなかった大切なことをいくつも教えてくれました。彼女は私の半身のようなものです。家族以上に大切な人でした」
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「戦いに行く前の顔とおっしゃいましたわね。目に浮かぶような気がします」アワヒメは言った。「娘をここに預けてから、彼女はその戦いに赴いた。それは一人で死ぬことでした。夫にも誰にも会うことがなく。ですから、生きている最後の彼女に会ったのは、あなたなのです。そのときの彼女の姿を少しでも私は知っておきたかった」
「だけんども、そんなことして何になります? おつらくなるだけじゃないんですか?」
「そうですね。人によっては愛する人の幸せな姿を目にとどめ、心に刻んでおこうとしますのでしょう。けれど私は、大切な愛する人が、どれだけ苦しんで死んだかを、知りたいし、忘れたくないのです。その人をそんな目にあわせた人のことを、ずっと覚えておきたいから」
「許さないっておっしゃるんで? しかえしするってこってすか?」
「さあ、そのためにも、自分がまちがった恨みや怒りを持たないですむように、すべてを知っておきたいのです。彼女についてご存じのことを、すべて聞かせていただきたいのです」
「そんなことおっしゃったって、あたしはあの日、一回こっきりお目にかかっただけなんで」
途方にくれたような顔の老婆に、アワヒメはほほえみかけた。
「その前に会っておられるはずですわ。何度もお話をされていらしたはずですわ」
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老婆のこごめていた上半身が、わずかに伸びた。落ち着いた声が問い返した。「いったい、何のこってすかねえ」
「私たち二人は成長し、私は仕事が忙しくなり、彼女はクラド王の妃となって、あの町にとつぎました」アワヒメは聞かなかったようにゆっくりと続けた。「彼女には娘が生まれ、私は戦いを重ねました。けれど、おたがい忙しくて会う機会は減っても、私たちはときどきこっそり抜け出して、昔のように二人きりで、草原をかけまわり、干し草の山に寝て、星空を見上げて、いろんな話をしましたわ。家族のこと、仕事のこと、そして広い世界のことや未来のことも。アメノウズメの鏡が割れて、この世から消えたあと、タカマガハラが新しい鏡を作ることをめざしていることや、クラド王の町のカナヤマヒメという学者が、たくさんの鏡を持って、あの町を守っていること。ですけれど、カナヤマヒメは次の世代の鏡を作ったり、使ったりできるような器じゃないと思うわ、と私の友は笑っていました。カナヤマヒメの融通のきかなさ、生真面目な無神経さについての話題は、いつも私たち二人の笑い話の種でした」
「若い娘さんたちは口さがないこって」老婆はとがめながらも、目をなごませていた。「年よりのがんこさや間抜けさをさかなにして、さぞやお楽しみだったこってしょう」
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「そうは言っても彼女はタカマガハラとの交渉や、鏡のことについて、カナヤマヒメと相談もしていたのですけれど」アワヒメはほほえみ返した。「そこは彼女も妃として、私もタカマガハラの者として、たがいに秘密もかけひきも持っていました。一方で友人としての信頼から、話せることはぎりぎりまで打ち明けあってもおりました。彼女は夫に、私はタカマガハラの支配者に、もらさない秘密を与えあって、わけあっていましたの。ですから、私も全部ではなくても、ある程度のことは知っております」
「たとえば、どんなこってすね?」言われたことがどの程度わかっているのか、老婆はぼんやり首をかしげた。
「カナヤマヒメの鏡は、あの町を守るぐらいの力はあっても、それ以上のものではありません。カナヤマヒメその人も、かたちだけの管理をしているにすぎません。ウズメの鏡に代わるような力を持つ鏡は、他のどこかで別の誰かの手によって作られている。カナヤマヒメはその人の指示を受けて、町の鏡をあやつって、目くらましをしているだけです。お妃自身もカナヤマヒメといっしょにしばしば、その方のもとを訪れ、娘たちもいっしょによく遊びに行っていました」
「そこまで」老婆が言った。曲がった腰がすっきりと伸び、りんとした口調があたりを払った。「あんたの鏡を見せてごらん」
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「え?」
「そこまで聞いているのなら、よもや知らないわけじゃあるまい」老婆の目が炯々と光ってアワヒメを射た。「鏡について私と話そうと思う者は、たとえどんなに未完成で不十分でも、自分が手に入れ、日夜みがいている鏡を差し出すことになっている。あんたの持ってる鏡をお出し」
アワヒメは黙ってかくしの中から、以前タヂカラオの町の裏通りで買った、小さな丸い、さびついた鏡を出した。
受けとって、それをむぞうさに打ち返して見た老婆の目が、ふっとやわらぐ。
「あんたは、なかなかの目利きだね」鏡を戻しながら老婆は言った。「よく、これだけのものを掘り出したよ。少し手をかけて磨けば、それなりの力は持つようになるだろう」
「ありがとうございます」
「あんたの親友カヤヌヒメの見せた鏡もみごとだったが」
「私のより?」
「負けず嫌いのお嬢さん」老婆は快さそうに声を上げて笑った。「いや、それほどじゃなかったら、お妃も将軍もつとまるもんじゃなかろうね。安心おしよ、二人の鏡はどちらも甲乙つけがたい。どっちも弱みと長所があるが、それぞれにかけがえのない、いいものを持っている」
「アメノウズメさまの鏡はどうでした?」
「あれはもう、けたちがい。あの娘がけたちがいだったようにね。とりわけて、アマテラスへの強い愛のまがいなさが、その力を何倍にも強くしていた。だからあれだけ長いこと、広い世界を支配しつづけられたんだろうよ」
「カナヤマヒメはどうでした?」
老婆はにやりと笑った。「箸にも棒にもかからないってとこだね。安っぽくて、ありきたりの、そのへんにあるがらくたさ。もっとも鏡を見なくても、それぐらいのことはわかっていたが。だからこそ、あの町においといて、そこそこの力を持つだけの鏡を管理させといたんだよ。タカマガハラやヨモツクニへの目くらましにね」
※
受けとった鏡を大切にしまい直しながら、アワヒメは少し居心地悪そうに身じろぎした。「あの」と彼女は口ごもった。「カヤヌヒメはあなたのお名前もお身の上も、私に教えてくれていませんでした。何とお呼びすればよろしいのでしょう? タカマガハラやヨモツクニにいらしたことは、おありなのですか?」
「名前だったらイシコリドメ」老婆は愉快そうに笑った。「どこで生まれて、どこで育ったか、自分でもよく知りません。タカマガハラともヨモツクニとも、その他のどんなところとも関わったことはありません。私たち鏡作りは皆そうです。誰もがばらばらに生きていて、故郷も家族も持ちません。味方もいないし、敵もいない。あるのはただ、鏡を作りたいと思う情熱だけ。そうやって作り出す、おおかたのものはごみになり、ひとつまちがえば、危険極まりない武器になる。中には人を楽しませるだけの、罪のないものもある。作っている本人や、あるいは力の足りない使い手が、鏡に逆に支配され、自分をゆがめてすりへらし、ほろびてしまうのも、よくあること。すべてが出たとこ勝負のかけですよ。おそらく私はこの世界では最も古い鏡作りでしょうが、まだ何一つ鏡のことはわかっていない。だからこそ、ひきつけられます。この小屋で鏡をみがき、よりよいものを作ろうとしているだけで、私は満足だし、何も望みはしません」
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「これからも、そのお考えは変わらないのでしょうか?」アワヒメは言った。「アメノウズメさまの鏡は多くの不幸も生みましたが、世の中を支えてもいました。あの鏡が割れてもうかなり長い時間がたちます。そろそろ、鏡のない世界が乱れ、崩れはじめるでしょう。私たちはその前に、新しい鏡を作り、その使い手を探さなくてはなりません」
「わかりますが、それは私の仕事ではない」イシコリドメは答えた。
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別れ際にイシコリドメはアワヒメを小屋の中に招き入れ、制作中の鏡のいくつかを見せた。あるものは月のように青白く輝き、あるものはしたたる血のような色をしていた。むぞうさに重ねて木箱に放りこまれていても、そこからは、こちらが身ぶるいするほどの強い力が放たれていた。
「お友だちのカヤヌヒメの鏡もここにありますよ」イシコリドメは薄緑色の光を放つ四角い鏡をアワヒメに渡した。「お持ちになりますか?」
「いえ」そっとその面にふれながら、アワヒメは首をふった。「できればここにおいていていただけないでしょうか。そしてもしお許しいただけるなら、ときどき見に来てもよろしいでしょうか」
「どうぞいつでも、おいでなさい。手入れを欠かさないようにしておきますから」イシコリドメは言った。「よければミズハも連れておいでなさい。引き取り手がいなかったら、ここによこしていいですよ。鏡作りの素質があるかもしれません。姉のタクハタも、虹の使い手として、すでに才能があったのですから」