「水の王子・町で」(2)/200
「水の王子・町で」(第二回)
【訪ねなかった理由】
タカヒメが岩に手をかけてのり出して見下ろす谷底の町は、こんもりと深い緑に包まれていた。その間から灰色や茶色の屋根がのぞき、黄色い敷石の道がとぎれとぎれに見えている。ところどころに見慣れない高い木々や、ふしぎな赤い葉をそよがせる茂みが目についた。笑い声とも叫び声ともつかない大勢のざわめきが、ここまでかすかにたちのぼって来る。深くとどろくけものの吠え声や、けたたましく耳慣れない鳥の鳴き声もそれと入り混じっていた。
ほのかにただよって届いてくるのは、花のような甘さと、ぴりりと鋭い奇妙な香りだ。不愉快ではないが、どことなく心を騒がせる。タカヒメは小さい鼻をぴくぴくさせた。
「住んでる人は多いんですか?」岩から手をはなして振り向きながら彼女は聞いた。
アワヒメはゆっくりと首を左右にふる。「私も来るのは初めてなのです。タケミカヅチはときどき来ているようですけれど」
「面白そうな町なのに」どちらからともなくまた歩みだして坂を下って行きながら、タカヒメが元気に言った。「放っておられたのは、危険はないと判断されたからですか?」
「そうね。それもありましたけれど」考えるようにアワヒメは空を見上げた。「何となく、勇気がなかったからかしら?」
※
「勇気?」
「タヂカラオと面と向かってゆっくり話すのが、何だか気が重くて」アワヒメはほのかに笑った。「彼が船を下りて、タカマガハラを去ったときのことを思うと」
「何かまずいことでもあったんですか?」
「表向きには、これと言って何も。彼は長いこと戦ってくれていたし、そろそろ休んで好きなことをしたいようだったし、とめる理由もなかったわ。でもね、あのころは、ワカヒコさまがナカツクニの村に行かれたまま帰らなくなって、そのことで、いろんなことを言う人がいたのですよ。タカマガハラの次の支配者だと皆が思っていた人だけに、彼のことをよく知らない人たちまでが、見損なったとか裏切られたとか、いろんなことを言い出したの」
「そうなんですか」
「無理もないのですけどね。皆が安心して、油断していたのですよ。あの方を信頼して、頼りにもしていたから、タカマガハラはこの先ずっと心配ないと感じていましたから。それなのに、その人が、小さな村に行ってしまって、そこの長と仲よく村の仕事にはげんでいるという噂が伝わって来たのではね。いろいろなことを言いたくなっても無理はない。それでも腹は立ちましたよ。あまりにもでたらめの、何ひとつわかっていない悪口が、毎日耳に入って来るのにはね。何よりも私たちは、タヂカラオがどんなに傷つくかと思うと、苦しかったのです。彼は本当にワカヒコさまを愛していたから、どんなにくだらない、根も葉もない悪口でも、ひたすらに、心は血を流すだろうから。あの鉄のような肌も、はがねのような筋肉も、そんなことばの刃を防ぐには、何の役にも立たないでしょうから」
アワヒメの声には、今もなお、深い嘆きがこもっていた。
※
「タヂカラオさまは、それが原因で船を下りられたのですか?」タカヒメは聞いた。「ワカヒコさまの悪口を聞くのがつらくて?」
「聞きませんでした。聞く勇気もなかったわ。彼を失うのはとても淋しくてつらかったけれど、もうこれで、無責任な噂を彼が聞かないですむのだと思うと、苦しいなりにほっとしたのも覚えている。あのころ、将軍はめまぐるしく代わったし、誰が指揮をとってもうまく行かなかったし、私たちの心もすさんでいたの。ワカヒコさまの思い出も、タヂカラオの心も、どちらも守る力はなかった。そのことが、今もどこかで自分を許せないのでしょうね、きっと私は」
「大変な時代だったのですね」タカヒメは眉をよせていた。
「もう何もかもすんだこと」アワヒメは気持ちを切り替えるように、明るく笑って見せた。「こうやって、私もあなたに話せるほどにね」