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「水の王子・町で」(5)/208

「水の王子・町で」(第五回)

【最前線はどこだったのか】

タカヒメの声はあいかわらず静かでやさしい。どこか祈るようなひびきもこもっていた。すきとおるように、きめこまかい白い肌には血の色さえものぼっていない。湯のみにそえた細い指もまったくふるえてなどいない。それがかえって、あたりに寒々と冷気を放つようだった。さすがのサグメも重いため息をついて、しばらく口をとざしていた。
 どこか遠くから、人々の歓声が波のようにひびいて来て、頭上の梢の葉ずれの音と入り交じる。
 気をとり直したようにアワヒメが、髪をはらってほほえんだ。
 「サグメさまは、ナカツクニでワカヒコさまにも会っておられたのですね。彼はどんな風でした?」
 「村の若者にまじって、他愛のない祭りや行事の仕事をしながら、楽しそうにしていたよ」サグメは苦笑した。「そう言うと、またどこぞのバカどもは、タカマガハラの惨状も知らずにのんきなもんだとか、とぼけたことを言うんだろうが、そんなことは何もかも彼は承知の上だったろう。私には今でも正確なことはわからないが、何となく感じたことはある。タカマガハラもヨモツクニもすべてをどこかで支えて結びつけている、あの村は何かの最前線だった。何よりも手が抜けない、彼にしかできない重要な役割を彼は果たしていたんだよ。それは何のためだったかということも、わからないやつには永遠にわかるまい。あたしにだって、わかっちゃいないかもしれないが」
     ※
 サグメは低い吐息をついた。
 「ワカヒコがタカマガハラに戻らないかもしれないと思ったとき、皆がどこかで考えたのは、あたしかアメノウズメが、次の支配者になるべきだってことだったろう。だが、ウズメは多分タカマガハラのことは気にしちゃいなかった。とにかくアマテラスだけをどんなかたちになろうと最後まで見守るつもりのようだった。アマテラスも彼女もいなくて、あたしに何ができるもんか。もう自分たちの時代じゃないってこともわかってた。だからタカマガハラを出た。あちこちの村や町を旅して、どっかで適当にのたれ死にでもするつもりだった。あの村にも長居をする気はなかったのさ。けれど結局居着いちまったね。アマテラスとウズメとあたしは、しょせん離れられない運命かもしれない。あたしたちもまた、もしかしたら、あの村で、自分たちにもわからないまま、何かの最前線の戦いをしていたのかもしれない」はぐらかすようにサグメは笑って口調を変えた。「まあ、あの村にいたら旅をしてるようなもんだからね。人はしょっちゅう入れ替わるし、風景までがけろけろ変わっちまうし、去年と今年と来年でおんなじことは何ひとつないし」
 「ワカヒコさまとは、いっしょに住んでおられたんですね?」
 「いっしょったって、あんた」サグメは笑った。「あそこは人がのべつまくなし入れ替わるから、いろんな家が空いててね。神殿みたような大きな建物に、何人かの若者や娘と私もいっしょに暮らしてたんだけど、何しろ大きな建物だから、別々の家にいたようなもんさ。皆でよく、食事やおしゃべりや訓練をいっしょにして、楽しかったもんだ。弓でも矢でもワカヒコの腕は全然衰えてなかったよ。本気を出したら、あたしより強かったかもね」
 「ニニギさまもそのあとで、あの村に行かれたのですよね?」
 「ワカヒコがどうしてるか、調べて来いと言われてね」サグメはおかしそうに唇をゆがめた。「ワカヒコとちがって、報告はそれなりに上げていたようだが、あの男もその内、村に居着いてしまった」
     ※
 「ニニギの報告は私もときどき聞かせてもらっていましたが」アワヒメは思い出しているように緑の梢に目を上げた。「あまりよく村の事情はわかりませんでしたね。あそこの長はやっぱりオオクニヌシだったのですか?」
 「どうだかね。ワカヒコもそこは迷ってた。あの男ならニニギよりなんぼかましの報告だっていくらでも上げられたと思うんだけど、あれで案外要領悪くてまじめなとこもあったからね。わからないことがわかるまでは、報告が上げられなかったんだと思う」
 「そのへんはニニギさまの方が要領よかったってことですか?」タカヒメが口をはさむ。
 「要領も何もあんた」サグメは苦笑した。「見えてない者は、自分が見えてないってことさえ気づかないんだから、そりゃ得得として好きなことを言えるさね。ニニギをバカにしてるんじゃないが、彼にはあの村が、見えてなかったから、見えただけのことを知らせただけだ」
 「ワカヒコさまは気づいておられた?」
 「うすうすはね。だが確信がなかったんだろう。一度私に言ったことがある。人間は結局相手を見るときに自分に似せて見てしまう。臆病者は臆病者を、卑怯者は卑怯者を、お人好しはお人好しを相手の中に見つけようとし、それで相手を知った気になる。しょせん人は、自分の枠と器の中でしか、他人を理解出来はしない。ウズメの鏡の力とやらも、きっとそこにあるのでしょう。人は相手の中に自分の姿しか見ず、結局はそれで真実を見失う。私はそれが恐いのです、とね」
 アワヒメが突然笑い声をたてた。そして布でまた顔の半ばをおおって、声を殺した。
 「どうしたんだい?」
 「だって、ワカヒコさまこそが、どこかそんなところがおありでしたのに」アワヒメは布の下から少しくぐもった声で言った。「人は皆、あの方の前では、それと気づかず鏡の前にいるように自分の姿をさらけ出し、自分に酔ったり、憎んだりしていました。そんな仲間を何人も見ましたわ。あの方は何もなさっていないのに、人は勝手に自分の愚かさ、弱さ、冷たさをあらわにしてしまう。何もかも見苦しい一人芝居であることさえも気づかずに。だから私は、あの方が恐かったのです。自分のいやしさや、うぬぼれを、目にしてしまいそうなことが。あの方ご自身がそれに気づかれなくても、他の人にはきっとはっきりわかるでしょう。それは、闇と恥への道のように思えたのです」
     ※
 「ワカヒコがオオクニヌシを理解するのに手こずっていた理由のひとつは」サグメが言った。「今、あんたが言ったようなこともあったかしれないね。自分でどれだけ気づいていたかは知らないが、彼はオオクニヌシに似てるところがあったんだよ。二人とも陽気でのんきなように見えて、この世も他人も、あまり愛しちゃいない。何もかも消えてなくなればいいって、心のどこかで思ってる。そんなところがどこかにあった。そしてどっちも、それはあいにく、かなわない望みと知ってた。だからなるべく、何事も起こらない平和で静かな世の中を作り、誰にもじゃまされずに生きるよう、皆を幸福に、安全にすることをめざしていた。それに気づかぬバカどもは、二人が親切だのもの好きだの人がいいだのおせっかいだのと思いこんでしまうんだろうが、それは自分がどれだけ周囲に迷惑をかけ、ごみや汚物をまき散らしているかって自覚のないアホだからだよ。あの二人ほどじゃなくても、誰かが自分の汚したりこわしたりしたものを、せっせせっせと片づけてくれてることに、一生気づかず死んで行くのさ」
 「そう思ったら、トヨタマヒメもそうですね」タカヒメが息を吸った。「だからワカヒコは彼女を大事にしたんでしょうか」
 「少なくとも彼女には、からっぽの頭も冷たい心もなかったからね」サグメは笑った。「そんなものを抱えて、いっぱしの気分で歩き回っている連中よりは、はるかにましだったろうさ」
 「ただ、そうなると気になることが」アワヒメが顔をあげた。「キノマタのことはどうなるんでしょう?」
     ※
 「それは私にもわからない」サグメはひっそり茶をすすった。「オオクニヌシがキノマタを徹底的に無視し、村を危険にさらしてまで、彼をそのまま放置したのは、どういう心の闇だったのか。今思えば、ワカヒコはあのときそんなオオクニヌシを見て、あきれるほどに動揺していた。村についても、オオクニヌシについても、何もわからなくなったと言っていた。あんなに悩んでいた彼を見たことがない。そして最後に彼は、タカマガハラの戦士であることを放棄し、村人の一人としてキノマタに向き合おうとした。おそらくは愛そうとした。まるで、オオクニヌシのなすべきことを、自分が代わって引き継ごうとしたように。あれは最後の戦いだった。大きな、そして恐ろしい。彼がどんな逡巡と決意をして、そうする道を選んだのか、私は今でもわからない」
 「私もです」アワヒメは静かに言った。「けれど、考え続けます。人が彼について何を言おうとも、二度と心を騒がせはしないでしょう。そんなものに気をとられているひまなどありません」
 

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カツジ猫