「水の王子・町で」(8)/211
「水の王子・町で」(第八回)
【うけつがれる命】
「わしは傷つかなかったよ」やがてタヂカラオはおだやかに言った。「アワヒメ、あんたがそんなに気にしていたのなら、すまんことだった。だがよ、ワカヒコさまのことで人が何を言ったって、わしはちっとも気にならん。あの方のことはよく知っている。楽しい思い出ばっかりだよ。誰にもそれは、手がとどかんよ」
「でも、その思い出って、もう変わることはないのよね」アワヒメは少女のような淋しそうな目をした。「誰にもさわれないし、汚されないし、変えられないけど、その分、色あせもするし、もろくもなるわ。もう何も、新しくつけ加わることがないのですもの。守っても、いつくしんでも、私たちの一人一人が死んでいなくなるたびに、それは欠けて、消えて行く。それはそれで、悲しくはない?」
タヂカラオは首をかしげた。「小さいことも入れたら、あの方について思い出すことは、あんまりたくさんあるからなあ。なくなったり欠けたりする心配はないなあ。あんたの言いたいことも、ちっとはわかるよ。死んじまったからには、もう思い出は増えないって言うのはな。それがほんとなら淋しいもんさ。だがよ…」彼は口をもごつかせて、黙った。
床の上からヤタが気がかりそうに見上げ、「どうかした?」とアワヒメが小声でうながす。
「わしはどうもそのう、ワカヒコさまが完全にお亡くなりになって、この世から消えちまったって気がせんもんな」タヂカラオは言った。「ほんとにもう、いっぺんも」
※
「気持ちはわかるけど」アワヒメは悲しそうに言った。「わかるけど」
「いや、そういうんじゃなくてだな」タヂカラオは、どう話したものか、考えこんでいるようだった。
「思い出すことが本当にいっぱいあるのね、あなたには」アワヒメがつぶやく。
「あの方が、イザナミさんと和解して、お身体も少し元に戻られたとき」タヂカラオはたしかに、思い出しながら話しているようだった。「いっぺんだけ、タケミカヅチにたのまれて、夜にお身体をほぐしてさしあげたことがある。長い間、苦しまれておられたから、まだ手足があちこち固まっておられるみたいだと、タケミカヅチが言っとったから。眠っておられたし、こちらも目を覚まさなくなるような押さえ方はわかっていたから、多分、わしとタケミカヅチの区別はついておられなかったろうよ。お身体を調べて別に問題はなかった。疲れが残っておられるだけで。だが、背中や脇腹に何か所か、しこりのようなものがあって、もみほぐしてもだめだった。その内に痛がっていやがられる風だったから、そのままにした。どうしてか、悪いもんとは思えなかったんだ。放っておいても心配ない気がした。あとで、タケミカヅチとも話したが、あれはイザナミさんがあの方の中に残して行ったもんじゃなかったかと思う。そして、同じように、きっと、イザナミさんの中にも、あの方は残ってる。それはイザナミさんを通してイザナギさんにも伝わってるんじゃないかと、わしには思えてならんでな」
タヂカラオは肩をゆすった。
「タケミカヅチが話しとった。あの方は村で最後に会ったとき、自分がどこか変わった気がすると言われとったとか。それは、あの方の中のイザナミさんのせいじゃなかろかと、わしたちは言い合ったもんだ。あの女の、あきらめの悪さやこだわりや熱っぽさや、そんなもんのいろいろが、あの方のめんどくさがりだの、のんきさだのを少し減らしたのじゃないんだろうか。そうやって、イザナギさんやイザナミさんのおられる限り、あの方もまた、今もこの世のどこかにおられる。そうやって、変化して、ずっとどっかに生き続けておられる。気をつけておれば、目をこらして耳をすませてさえいれば、あの方にはいつでも会える。自分の中も、外の世界も、あの方で満たされとる。そんな風にしか思えんのだよ。どうしても、わしにはな」