「水の王子・町で」(9)/212
「水の王子・町で」(第九回)
【カエルと花束】
「いやー、たまげた、ぶっとんだ」タヂカラオの家を出てかなりたっても、まだヤタはくり返していた。「おっしょさんがあんなにしゃべったの聞いたことがないや。ひょっとしてもうこれで十年ぐらい、ひとっことも口きかないんじゃないだろなあ」
再びしっかり布を顔にまきつけているアワヒメが肩ごしにふり向いて、ヤタを見て笑った。
ヤタとアワヒメとタカヒメが歩いているのは、涼しい風がそよそよ流れる静かな町の裏通りだった。また来るからと別れを告げて、タヂカラオの家を出てから、広場の船に立ち寄って、トリフネたちに帰りも小舟を使うことを告げると、送るからとついて来て、もの珍しそうに船の中をながめていたヤタが、山に行くなら近道があるから教えてやると言ったのだ。
「ここの店も面白いぜ」とヤタが言うので、三人は石造りの壁の一部になっているような小さな店に入ってみた。品のいい老婆が一人で店番をしていて、客は数人いるだけだった。
兄へのみやげとタカヒメが珍しい薬草をいくつか買い、アワヒメも軽くて丈夫な薄い手袋を買ったあと、「あら、鏡まであるのね」とアワヒメが店のすみのかごの中に積み上げられた古い鏡の山に目をとめた。「みがけばちゃんとお顔が映りますよ」と老婆が言うので、二人は小さいのを一枚ずつ買った。
「ウズメさまにお見せしたら何とおっしゃるかな」タカヒメがはしゃいだ。
「彼女にも一度お会いしたいと思っているのだけど」アワヒメは黒ずんだ鉄のかたまりのような鏡をかくしにしまいながら言った。「お忙しそうよね」
「今度お連れしますよ」タカヒメがはりきった。「あそこの温泉もなかなかですからね」
※
山に登る入り口で二人はヤタと別れた。「お世話になったお礼に、なにかほしいものがあったら買わせて」と店でアワヒメが言ったのだが、ヤタは固辞した。その代わりにと別れ際にアワヒメは髪にさしていた木の櫛をヤタに渡した。「誰か好きな人ができたら、あげてちょうだい」
「おれ、そんな人まだいらねえよ」ヤタはちょっと赤くなりながら櫛を受け取った。「まだ修行中だしさ」
「きっと強くなれるわよ。そして、おっしょさんをお願いね」
「まかしとけって」ヤタはこぶしで胸をたたいた。
※
「たしかに、この道の方が歩きやすいし、ながめもいいわ」アワヒメは山を登りながら、かぶり布をとって、髪をふさふさと左右にふった。
風がその髪を吹き乱し、顔の回りにうずまかせる。
「わあ、そうしておられるとアワヒメさま、何だか感じがちがいますねえ」タカヒメが立ちどまって声を上げた。「何と言ったらいいんだろ、すごく…」
「なあに?」
「えらく、荒っぽい人に見えちゃう。いつものお姿と全然ちがっちゃって」
「ああ、それはあなたが私のことをまだよく知らないから」アワヒメは笑った。「私はね、とてもかんしゃく持ちなのよ」
「え、想像がつきません」タカヒメはへどもどした。
「それは誰にも見せないからよ」アワヒメは言った。「だからなるべくゆっくりしゃべって、ゆっくり動くようにしているの。それだと何だか気が長そうに見えるじゃない?」
「全然わかりませんよ。誰か気づいた人いるんですか?」
「いないでしょうね。ああ、アメノワカヒコさまは知ってたわね。一度私が大きらいな人からいただいた花束を、自分ひとりの船室で、力まかせに壁にたたきつけてばらばらにして、へや中に花びらや葉を飛び散らせて、それでもまだ気持ちがおさまらず、髪をふり乱して地団駄踏んで、茎だけになった束をふりまわしているとき、部屋に入ってきたことがあるから。もちろん声はかけたんでしょうけど、私は気づかなかったのね」
「ど、どうしたんですか、その時彼は?」
「びっくりもしないで、帆綱の束の新しいのはどこにしまってあるのかとか聞いて、返事を聞いたらうなずいて、そのままふつうに出て行ったわね」
「平気だったんでしょうか、あなたのそんなお姿を見て?」
「多分、私がそんな人間だと、彼はとっくに知ってたんでしょうね」アワヒメは答えた。「もう一つ、そんなことは彼にはどうでもよかったのよ」
「あーあ、何だかもう」
「何をがっかりしているの?」
「もう少し、そこで何かどうにかならないものかと思って」
「いったい何を期待しているの?」アワヒメは笑った。「ああ、そう言えば、その次の日かに甲板でカエルをくれたけれど」
「カ、カエルですか?」
「ちょっと珍しい、金色がかったのよ。黒焼きにして食べると気持ちが落ち着くっていう。そんなこと知らないから、しばらく部屋で飼ってたわ。ころころいい声で鳴いて、かわいかったわよ。しばらく後で、洪水から救って運んでやった村の子どもが、とてもかわいがって、ほしがって、結局あげてしまったけど」アワヒメはちょっと足をとめた。「あら、忘れたわ。タヂカラオに聞こうと思っていたんだったのに。あのカエル、ワカヒコさまに頼まれて渡したのかどうかって」
二人はもうずっと下の方になっている町を見下ろした。
「また来たときに聞けばいいです」タカヒメが言った。「何なら私が聞きに来ます」
「いいえ、いっしょにまた来ましょう」アワヒメはタカヒメの腕をとった。「見残したものがまだいっぱいありそうだし、サグメさまもまたおいでになりたそうでいらしたし」
明るくまぶしい陽ざしの中を、元気よく二人は坂を登って行った。
水の王子・町で 完 (2013.6.7.)