いたずらっ子列伝・1(水の王子覚書25)
「水の王子」シリーズの「渚なら」に、ミズハという少女が登場する。もともとは「丘なのに」でデビュー(笑)して、その後、父にうとまれて、ナカツクニの村に預けられたことになっている。本人は父に嫌われていると知らないので、トラウマなどはまるでない。
「丘なのに」は、アメノワカヒコとうり二つ(ここだけは「古事記」と同じ設定。笑)のタカマガハラのタカヒコが、何だかわかりにくいような単純なような使命を帯びて、繊細で優雅な王クラドの支配する通称「虹と花の町」に潜入する話だ。「町で」と並んで、ある意味アメノワカヒコの追悼の話でもある。
「水の王子」のタカヒコ君は優秀でないこともないのだが、のんきでずっこけているので、話の雰囲気は暗くはない。だが、「丘なのに」はその実、相当に悲しい話である。「町で」と同様、ここで私が書こうとしたのは、昨今のSNSその他のいじめに典型的なように、他者を傷つけることばを、さしたる根拠もなしにむぞうさに垂れ流し、そのことにさえ自分では気づいていない風潮への、嘆きと怒りだった。それによって、傷つけられた人々の痛みの深さ、そのことによって広がる多くの人の苦しみ、そしてその人たちがどうやって立ち直り、再生して行くかという話だった。
私自身、人をことばで傷つけたことはきっと限りなくあるはずだ。しかし、その私でも唖然とするほど無神経に過激に乱暴に、ことばで攻撃(相手は多分気づかずに)されたことはもちろん多い。そもそも私の青春時代の七十年代の学生運動全盛のころは、別にそういう政治活動を(してる人はもちろん)してない人も、ぐさっと相手を傷つける言葉を口にすることが、礼儀で自慢で力と愛の確認みたいに思われていた恐ろしい時代だった。だから私は、昭和も七十年代も大嫌いだし、同時代の若者も(自分をふくめて)大嫌いだ。それはもう、いろいろあっても、今の世の中の方がずっといいと思う。まあ、そんな世の中だから、あんな政治が許されてしまったことは問題すぎるが。
だから、無遠慮で無神経なことばには、耐性があるっちゃあある。しかし不快なことは同じだ。虹と花の町(ようこんな名をつけるよ自分)の住人はクラドをはじめとして、その耐性はあまりない。そして、そのことが大きな悲劇を招いた。
困ったことに、よくあることに、華やかで繊細で子どもっぽくさえあるクラドは、頭もいいし感情も豊かだ。彼はその悲劇を生んだ相手を憎むとともに、自分の愛する娘ミズハも、またその悲劇に一役買っていることに気づいてしまう。それが彼女の本質でもあることに。
そう思ったとき、彼はもうミズハを受け入れられない。
まあ、なんだかだそんなこともあって、ミズハはナカツクニの村に来るのだが、幼い女の子なのに、とにかくエネルギッシュで破壊的に元気がよくて、村を混乱に陥れる。
実を言うと、この展開はまったく偶然で、作者の私も予期していなくて、だから村での彼女を書き始めて、あらー、やばいと頭を抱えた。そもそも私は、幼いころの童話でも、この手のいたずらっ子が大きらいだったし、感情移入したこともなかったのだ。私は天皇制には反対だけど、現天皇家の人たちは好きで、とりわけ愛子内親王が幼いときに学校で乱暴な男の子にいじめられて登校拒否になりかけたときには、同情を越えて、その男子をかなり憎んだ(笑)。ひょっと、「いじめたのは、かまったのは、実は好きだったからだ」みたいな、賞味期限が百年前に切れてるような腐りきった言い訳でもしくさったら、絶対に許さないと思ったが、さすがにそういう報道はなくて、私はいらぬパワーを使わずにすんだ。
とにかく、いったん登場させたからには面倒をみようと、光源氏みたいなことを考えて、私は洋の東西のいたずらっ子を描いた文学について、少し考えてみることにした。
めっちゃ長くなりそうだから、タイトルも「1」としてます。で、次回に続けます。(つづく)
あ、イラストは、新発売の紙本を出す準備で、人物紹介用のアメノサグメとコトシロヌシです。