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どっきどき

最近こういうタイトル多いな…

世界も日本もどこもかしこも、いろいろ心配なことはあるけど、正直言って今の私が一番気にしていることは、「水の王子」シリーズ(全七冊)に続く「砂と手」シリーズ(全八冊)の表紙のこと。「砂と手」のタイトルから、わかる人にはすぐわかるように、これは映画「グラディエーター」初編の感想もどきの小説集で、最初は表紙は他の方にお願いするはずだったのだが、何がどうしてどうなったのか、また「水の王子」の時と同様、私が絵を描くことになってしまった。

「水の王子」のときだって、いいかげんびびりながら描いてたのだが、まあ童話っぽい感じで下手ウマ(にも達しないが)の線をねらっとけばいいやと開き直って描いていた。

新シリーズだし、雰囲気を変えないとと思ったのと、とっとと仕上げて国文学のお勉強に戻りたいと思ったのとで、表紙の絵はすべて、手持ちの石膏像(それも首がもげたの)のスケッチで統一し、重厚というより地味で淋しくなりそうだから、ふちに小さく花をあしらうことにした。

何事もやってみなきゃわからんもんだよねえ。
 手抜きというか、一番簡単な方法を選んだつもりだったのだが、やってみると、これがさあ。単純な石膏像のデッサンとか、花のスケッチとか、基本でありふれてるだけに、実は超むずかしいんだよね…と気づいたけれど、もう遅い。方向転換するパワーもない。大阪万博をやめられないアホの気持ちがちょっとだけわかる。利権はからんでないけどさ。

とりあえず、花と石膏像のスケッチを表紙作成の担当者に送って、表紙を作ってみてもらってるんだけど、どの程度使い物になりそうなものになるか、予想もつかない。あーやだやだ。マジでやだ。

私はもちろん、ちゃんとした絵画の勉強なんて、町のカルチャーセンターの講座ででも一度もやったことなくて、本でさえ、基礎的な知識を学んだことさえない。いっくら何でもなめてるんじゃないかと、さすがに自分でも思う。

ちなみにこんなん需要あるのかな、「砂と手」シリーズ全八冊の内容一覧です。作品は一応このホームページのこちらで読めます。ただしまだ挿絵はないけど。ついでに、「まえがき」も紹介しておきます。

「砂と手」まえがき

二〇〇〇年にリドリー・スコット監督の映画「グラディエーター」が公開された。

この映画の感想をdaifukuさんの運営するファンサイトで他の方々と語り合う内に、自分の見解や映画の魅力や解釈を説明するのに、小説のかたちをとった方が、わかっていただける気がして、長編短編さまざまな作品を書いて、掲載していただいた。

その後退職して新しいサイトを作ったときに、それらの文章を移行してずっと公開していた。

今回、二〇二四年に同じ監督によって続編が作られることになった。

私のこれらの作品の中には、映画の前日談や後日談も多く含まれる。続編が作られる以上、それとは異なる設定の前日談や後日談も新しく生まれるだろう。混乱を避けるために、現段階で、私の作品はあくまでも二〇〇〇年公開の映画に基づく見解や解釈であることを確認しておきたくて、出版しておくこととした。

私は二次創作やファンフィクションは洋の東西と時代を問わず、小説の形式として基本的に存在するものと考えている。これらの作品は小説のかたちをとった、映画の批評であり鑑賞文であるのだが、小説として読んで楽しんでいただけたら、それはそれでかまわないし幸福でもある。

当時のファンサイトで語り合った方々とはdaifukuさんをはじめとして、ほとんどの方にお目にかかったことはないし、現在の交流もない。どこかで、これらの本を目にして思い出して下さったら、それもまた嬉しい。(2024.10.20.)

こちらは、各冊の内容です。

 

「砂と手」全作品紹介

第一冊 ローマ

山賊物語

スペインの酒場で、一人の酔っぱらいが語り続ける、ある夫婦の話。名もない多くの人々が語りついだ、ローマと妻を愛した男と、夫と自由を愛した女の伝説とは?

 

雨の歌

舞台は紀元170年頃のローマ軍駐屯地付近。登場人物は一人の少年兵と売春婦たち。時刻は日ぐれから夜までで、ずっと雨が降り続いています。 のんびりおっとりして素直なこの少年兵は、女を買いに来た上官たちの馬の番をするために連れて来られて表で待っているのですが、まだ女の人と寝た経験はないようです。さて、彼はどうなるのでしょう?

 

日没まで

なぜ私は、他の誰でもなく、あの男に皇帝の位をゆずろうとするのか?老皇帝は、幼い子どもだった、その男との出会いと、その後を追想する。 兄たち二人に連れられて軍に入った幼い少年は、利口ではしっこい一方で、ぬけめなく、ずるく、したたかで、嘘つきだった。その健康な生きる力と、かしこさと素直さを深く理解し、愛した若い皇帝は、その子どもに学問だけでなく、人としての生き方を与え、子どもは太陽に向かう草花のように、ひたむきに皇帝を愛し、慕った。今はあらゆる人に敬愛される偉大な将軍となった彼の、昔を知る老兵たちは「あれは、陛下の生んだ子ですな」と笑う…この幸福なラストから、悲劇につながるのがつらすぎるという方は、第七冊「季節」の中の「マルクス君の夏休み日記」の世界につなげてしまって下さいね。

 

象が眠る村

あなたは自分の生まれ育った村で一生すごしても悔いはありませんか?自分の可能性をためすために、遠い都に出ていってみたいと思ったことはないですか?これは、ローマ帝国の若い兵士の目を通して、アルプスの小さな村を舞台に、「村を出る」とはどういうことかを描くお話です。 出世と栄達の道が約束されていながら、故郷の妻のもとへ帰ることを選んだ大将軍のまだ若い日には、こういう体験があったのではないかという物語です。登場するのは「ミステリー・アラスカ」のビービィはじめ、「クロッシング」の若者たち、「ヘヴンズ・バーニング」のコリンなどなどを連想させる人々が、故郷や家族、人生の目的などについて語り合う中に、大将軍自身が自分の村を出た日や、「選ばないでもすんだ」彼の過去の話も登場しています。

 

美しい日々

かつては自らも剣闘士だった老興行師は自問する。なぜあの男がこんなに気になる?自分の持つ剣闘士奴隷の一人にすぎない、無口で静かな、あの男が? まるでやる気がなさそうなのに、戦えば必ず勝ち、男はもとより女にも子どもにも、客には奇妙なほど好かれるその男。手なずけようとしてみても決して心を開かない彼は、かつて先代の皇帝に愛された偉大な軍人であったらしく、自分にかっさいを送る観客も、その前に自分を送り出す老興行師も深くさげすみ、嫌悪している。だがある夜、心に抱いて苦しみ続けていた先帝とローマへの失望と懐疑を彼が初めて語った時、それらへの愛と信頼をよみがえらせたのは、先帝と間近にただ一度しか対したことのない、老興行師のことばだった。そして、男と心が通い合った時、骨の髄まで剣闘士だった老興行師は、自らの最後の闘技場に赴くことを決意する。

 

 

第二冊 戦友

冬空

彼は常に好運に恵まれていた。信じられない運の良さでみるみる私に水をあけて行った。どうしてあんなに、運命の女神はあいつにだけ微笑むのだろう。 ともにローマの少年兵として戦場で会った時から、彼の副官となって活躍するまで、「私」はずっとそう思いつづけていた。彼が意外な事件をきっかけに没落して、自分は近衛隊長となり、立場は逆転したと思ったのもつかの間、この世の最底辺の剣闘士奴隷として、なおかつ彼は、人々の心をつかみ、喝采を浴びて、ローマ市民の寵児となる。なぜこうなってしまうのか。なぜいつも…。その謎が解けた時、彼との別れがせまっていた。

 

夜の歌

あなたに、あまりに献身的につくしてくれる人がいて、何の見返りも要求しなかったら、それって、ちょっと恐くない?というお話。 ある将軍の残した日記、というかたちで、お話は展開します。こんなにつくしてもらえるようなことを何か私は誰かにしたっけ?と考えあぐねて困っている将軍さまを、どうか優しく見守って、笑ってやって下さいませ。

 

第三冊 皇女

 

海の歌

母が本当に愛したのは誰だったのだろう? のんきで人がよかった夫か? 名君とほまれ高かった父の老皇帝か? 暴君とそしられて殺された弟か? 早世した母親か? 昔の恋人か? 息子の自分か? ローマの国と民衆か? それとも結局は自分自身であったのか? 19歳の青年ルシアスは、母が病死した一年後、それを確かめるためにローマに向かう。母は幼い少女の頃から、父の友人で政敵でもあった元老院議員のグラックスに、折にふれて手紙を書いていた。不思議な美しさをたたえる広大な屋敷に住む老議員グラックスは、ルシアスに快く、それらの手紙を読ませてくれる。幼い母が、少女となり、若い兵士と恋をし、別れ、成長して父や夫や弟の背後でローマの政治を動かして行く、聡明で勇気ある女性となって行く姿を、ありありと目に浮かべながら、それでもなおルシアスは、本当の母の心がつかめないような気がしてならない。人は、何を書き、何を書かないのだろう。ことばによって描かれる世界も、目で見、耳で聞く現実の世界も、いったいどれだけ本当のことを私たちに伝えてくれるのだろう?

 

 

第四冊 アフリカ

 

呪文

アフリカのある村を救う、忘れられた一つのことばとは?「存在するはずなのに、決して語られることのない」そのことばをさがして、二人の少女は、曽祖父の時代の物語の中に踏み込む。 少女の一人の先祖ジュバは、かつて奴隷としてローマに連れて行かれ、剣闘士として戦わされた。仲間の一人イスパニアは、かつてローマ軍の将軍で、彼を指揮官にあおいでジュバたちはローマを震撼させる反乱計画を練るのだが…「冬空」で語られた場面のひとつひとつが、ジュバと行動や生活をともにした剣闘士たちの目を通して語られて行く。

 

鎖の解ける朝・砂嵐

砂漠の中のある町に、奇妙な女領主と女戦士がいた。女戦士と戦って倒せば自由にしてやると言われて、ある若い剣闘士が彼女に挑戦するが… 二人の女の関係は? どこか謎めいた、この町の秘密とは? 他の作品と比べるとやや異色の、とても短い、あっという間に読める話。読む人によって、不思議だったり無気味だったり、悲しかったり恐かったり、腹立たしかったり淋しくなったり、ひょっとしたら力づけられたりするかもしれません。

 

鎖の解ける朝・残照

すぐれた才能を村の長に深く愛されながら、その青年は、自分の生まれ育った村の伝統や文化になじめなかった。ある時、森の中で会った老人に教えられたローマの文化に彼は魅入られ、そのために長の怒りをかって犬のように鎖につながれる。どんな幸福な共同体にも必ずいるはずの、「回りにとけこめない」「遠い世界にあこがれる」異分子の生き方、その悲しみと誇りとは? 「砂嵐」と同様、やや異色ですが、過去や現在のさまざまな歴史を見る中で私が抱く、自分の国と文化を愛し守ることとは何か、という思いとも重なります。

 

その一夜

時代や歴史が大きく変わる時、そこにいあわせるのは、強い偉大な人たちばかりなのではない。何の力も持ち合わせない、弱い愚かな人たちも、時の歯車にまきこまれ、歴史のうずにのみこまれながら、どこかでそれを動かしもした。そんな人々の運命と思惑が入り乱れた、ある一夜の物語。一人の剣闘士が逮捕された夜の。彼を逮捕せよという命令をうけた近衛隊は、隊長の不在にとまどいながら、任務遂行のため、全力をつくす。一方、皇女の侍女たちは、そのことを彼に知らせ、待ち伏せの場所から遠ざけて脱走させようと、侍女頭のカルミオンの指揮のもと、命をかけてローマの町を走る。ガイウス議員の愛人マイアは、正妻の嫉妬におびえている。他にも、かわいがっている蛇とともに使命を果そうとする若い暗殺者、臆病な近衛兵、出世をもくろむ士官、剣闘士ファンの娘など、歴史にも文学にも名前はおろか、生きたしるしのひとかけらもとどめることなく消えていった、数知れない男や女の「その一夜」が今はじまる。

 

 

第五冊 コロセウム

 

沼の伝説

すばらしい男二人に愛されて、どちらを選ぶこともできずに苦しんで、娘は沼に身を投げた。この伝説が伝えようとした真実とはいったい何か。本当の意味とは何なのか? 若く有能なローマ軍の士官は、かつて山賊だった恋人の娘を連れて、休暇をとって故郷に帰って来ていた。親切な兄夫婦の家で、娘と愛し合うだけののどかな日々を楽しんでいた彼は、ふと聞いた、近くの沼にまつわる伝説がなぜか気になってしかたがない…。

 

狼と将軍

その人の姿が消えてから、皆の心はばらばらになり、世界はこわれた。何が正しいのか、まちがっているのかも、わからなくなった。 森で生まれ、ローマ軍の兵士に拾われて基地で育った狼は、かわいがってくれた将軍がいなくなった時以来、ずっとそう感じていた。新しい指揮官にごちそうをもらい、ぜいたくをさせてもらっても、彼の心は晴れなかった。将軍に仕えていた若者とともに、狼は将軍をさがして旅に出る。これは、混迷と不信の時代、爛熟し、崩壊を待つ世界の中、信じられるもの、そのために命をささげて戦えるものをさがして走りつづけた、一ぴきのけものの物語である。

 

マキシマス日和

コロセウムで無理やり戦わせられるのが悲劇なら、客席でそれを見守るしかないのも悲劇でなくて何だろう? 昔も今も、どんな時代も、遠くから見つめることしかできない相手を必死に応援するファンたちがいた。あるたぐいまれなる剣闘士にあこがれ、愛したローマの女性たちはどのように、彼を愛し、守り、対立し、和解したのか。その一人ユニアの思い出を通して描くそんな女性ファンたちの世界。ちなみにユニアは「狼と将軍」のオオカミ君の飼い主で、このお話は、オオカミ君も活躍する「狼と将軍」の後日談でもあります。

 

 ―彼女はきっと円形劇場に座を占めていた古代ローマの貴婦人のような人であろう。これらの貴婦人たちの多くは、その私的生活においては、明るくて優雅で、育ちがよく、情操の豊かな人たちであったにちがいない。芸術や文学のことも話をしたし、レスビアのスズメの死を悼んで一掬(いっきく)の涙を流したろう。それと同時に、裂かれた喉笛や、砕かれた脊柱や、ずたずたの内臓にかけても玄人(くろうと)はだしの審美眼をもっていたろう。(ギッシング「ヘンリ・ライクロフトの私記」 岩波文庫ワイド版55ページ)―

 

 

第六冊 家

大切な友だち

少年は戦線からめったに帰ってこない父親が大好きだった。同じ村の、おぼれそうになった友だちが父親に助けてもらった自慢話をするのが、うらやましくてたまらずに、彼はある日、ふらふらと一人で近くの池に出かけ、そこでふしぎな少年に出会う。 ローマ時代のある村の親子の話、と思って下さればそれでいいのですが、「グラディエーター」と「逃走遊戯」の映画が微妙に合体しています。もしかしたら「ハマー・アウト」も。でも、ただの空想好きな少年の幼年時代の話として楽しんで下さればそれでも充分です。

 

晩春

ある夫婦の話です。子どもが生まれて微妙に変わる二人の関係、父親になりきれない若い夫のとまどいと淋しさ、倦怠期とまでは行かないけれど、幸福の中のかすかな翳り。こんなありふれた毎日こそが、その実とてもドラマとスリルにみちているのかも。 映画「グラディエーター」と「ターニング・ラブ」が微妙に合体していますが、どちらの映画も見ていなくてもよくわかるお話です。

 

騒がしい朝食

紀元190年頃のスペイン。街道沿いで小さい宿屋を営む平凡な中年女は、客の男の一人から聞いた話で、彼を殺そうと決意する。 男はもとローマ軍の兵士。丘の上の家で昔、殺した女と子どものことを嬉々として語るのです。かつて、その家に乳母としてつかえ、奥さまと坊やとを深く愛していた、この中年女に、それと知らずに。 奥さまが語ってくれた、すてきなだんなさまとの出会い。結婚した今、そのだんなさまにも語れない奥さまのひそかな、さまざまな悩み。それらの話を思い出しながら、乳母は、奥さまと坊やを苦しめて殺したこの男への復讐を誓ってナイフを固く握りしめます。 このお話、できれば第一冊「ローマ」の中の「山賊物語」を読んでからにされた方がよいですよ。

 

街道風景

父が馬を走らせたこの街道が私は嫌いだ。この道をたどっていると、父の悲しみが伝わってくる気がするから。そして「あの男」と、母へのさまざまな思いも。残酷に殺された愛する者の思い出をどのように人がうけとめるのか。 父は、息子の「私」と母が残酷に殺されたものと信じ込んで死んで行った。ふとしたいくつかの行き違い、運命のいたずらから。それともそれは必然だったのか? 痛恨の思いをかみしめながら、「私」は父の心を知ろうとする。自分たちの死を父はどのようにうけとめ、そして耐えたのか。殺した相手をどのように思い、どのような復讐を決意していたのか。それとも? これはまた、「山賊物語」で登場した、身代わりに焼かれた死体の一家にまつわるお話でもあります。

 

第七冊 季節

春、爛漫

かつての部下が皇帝になった宮廷でぶらぶらしている元皇太子の若者が、皇帝の息子に語って聞かせる幼い頃の思い出。と言っても、それはほとんど現皇帝の元部下と初めて会った一日のこと。回りから大切にされてはいても、孤独で淋しかった自分を、一人前の男の子として扱ってくれ、のびのびと自信を持たせてくれた年上の少年兵。いっしょに馬に乗り、野原に寝ころんで過ごした日々。でも、その日々はもう帰りません。彼が失ったものとは何か、それを失ったのはなぜなのか。彼にはいつかそれがわかることがあるのだろうか、と私は時々、思います。なお、第四冊「アフリカ」の中の「呪文」を読めばおわかりですが、この二人の幼い日々は、元部下が皇帝にならない、悲劇的な未来を描いた私の他の小説の世界にもつながっています。どちらの世界でも、二人のこの過去は同じです。

 

マルクス君の夏休み日記

戦争よりも平和の方が苦しい時もある。不幸よりも幸福の方が手ごわい敵になることがある。これは、そういう話です。もし、前皇帝の望んだ通り、すぐれた若い大将軍が皇帝になったら、彼も他の人々も皆、幸せになったのでしょうか? いいえ、きっと、ちがった悲しみや淋しさやつらさが、彼らを襲ったにちがいありません。そして、映画の中で不幸と戦ったように、彼らは必死で幸福とも戦ったはずです。決してあれほどカッコよくはなく、とてもこっけいに、でも同じように真剣に。博多弁をしゃべるハーケンをはじめとした、登場人物たちのずっこけぶりに笑いながら、平和な時代を生きる荷の重さを、彼らとも、読者とも、ねぎらいあって、なぐさめあおうと、私はこれを書きました。

 

双子がいた!

物語とは、どうやって、生まれ、育って行くのだろう? それを作り出し、伝える者たちの陥る危険とは、苦しむ迷いとは、そして味わう喜びとは、何だろう? 赤ん坊の時、養子にもらわれた先の金持ちの両親に、おかいこぐるみで大事にされ、働くことも戦うことも苦手だし大嫌いで、おしゃべりで女好きで、ぐうたらで弱虫の「おれ」には、無口で勇ましくまじめな軍人の、うり二つの弟がいた。将軍にまでなったその弟が、奴隷に身を落とし、剣闘士としてコロセウムで死んだあと、ひょんなことから、彼の伝説を「おれ」は人々に語り始めるはめになる。さて、その結果…「語り」とは何なのか、ファンフィクションとは何なのか、私なりにあれこれ考えてみたお話でもあります。

 

 

第八冊 予言

アカデミアにて

もしも老皇帝の亡骸を前に、彼を弑した新皇帝の若者がさし出した手を大将軍がとって、忠誠の誓いをたてていたら? その時、彼が失わないですんだものは? 失うことになったものは? これは、私自身の職場のごたごたも盛り込んで、徹底的にパロディにしています。でも、この大将軍もたしかに彼だし、新皇帝も皇女も戦友も…。「生きのびて、家族を守る」道を選択した時、大将軍にふりかかる試練の数々は、同じ道を選んで生きのびている私たちの悩みや苦しみとも重なると思います。そして、この話の結末は、十年間愚帝としてローマを混乱させ、反乱を起こした姉の皇女を死刑にし、ついに自らも部下に暗殺される新皇帝という、現実の歴史とおそらくは一致するはず、なのですが…。

 

「まちがいのもとは、船に乗ったことだ。もちろん、おれたちは、動けるし、方向をかえ、歩きまわることもできる。だが、その動きは、風や潮の流れと同じように容赦なくおれたちを運んでゆく、より大きなものによって限定されているのだ…」「おれたちの名前が、ある夜明けに、大きな声で呼ばれた…使い…呼び出し…はじめにどこかで、言えるときがあったに違いない…『いやだ』と。しかし、どういうわけか、おれたちはのがしたのだ、それを。」(トム・ストッパード「ローゼンクランツとギルデンスターンは死んだ」より)

 

二人の過去

「グラディエーター」の映画がまったくと言っていいほど教えてくれない、主人公二人の昔の恋とはいったいどんなものだったのでしょうか? さまざまなお話が、各国の人の手によって作られていると思いますが、私の考えた解釈はこれ。映画の中の二人の表情や態度と重ねあわせて、どこも矛盾はないはず、というのが、工夫したところです。私の他のあらゆる小説は、皆、この筋書きをもとにしていて、これまた矛盾はどこにもないようにしているつもりです。

 

コモ君の厭味

映画「グラディエーター」の感想めいた空想の数々をメモしたもの。皇女と兵士の若い二人の恋には、皇女の弟の少年皇太子が彼自身も気づかずに深く関わってしまっている、というのが私の解釈。幼い皇太子は、姉も部下の兵士も大好きで、二人のどちらも独占したくて困ってしまいます。姉は弟を見くびっていて、あまり反応してくれないので、いきおい彼は兄のような若い兵士に厭味を言うことが多くなります。それは、ごらんの通り、彼の幼稚さと愚かさを暴露する以外の何物でもないけれど、同時に彼の淋しさや哀れさをまざまざと見せてしまうため、兵士は彼を憎むことができません。そんな日々を、ほとんど会話だけでつづったスケッチ集です。あとの方では、成長した皇女や、彼女と兵士の別れなど、シリーズ全体の核で土台となる重要な場面も登場します。

 

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カツジ猫