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スタビンズ君

文庫本で買ってきた「ドリトル先生航海記」をちびちび読んでる。私が昔、子どものころ、初めてドリトル先生の本を読んだのも、世界少年少女文学全集のこの「航海記」(井伏鱒二訳)だった。だからとてもなつかしいし、中身もほとんど暗記している。

新訳も、旧訳を大事にしてくれている感じで、悪くない。解説もていねいで、わかりやすい。ただ、ドリトル先生を崇拝して助手になる少年スタビンズ君が、この話で初めて登場するのを評価していて、この子が登場してくれたおかげで話が面白くなったと書いているのに、あれっと思った。たしか、ずっと以前にどこかで誰かが、この子が出て来てからつまらなくなったと書いていたような気がしたのだが、もしかしたらまったくの幻想、錯覚だっただろうか。とても記憶があいまいだ。

私はスタビンズ君については、その最初の文章を読んだときも、そうだっけと思った程度で、特に共感も反感も持たなかった。それとはまったく反対の、今回の解説を読んでも、やっぱりそれは同じだ。

しかし、そこをあえて、あらためて考えてみると、私は前に読んだ「この子が出て来てからつまらなくなった」(ほんとにそんな文章あったのかなあ。もしかしたら、「ハックルベリー・フィンの冒険」にトム・ソーヤーが登場するのに、誰かがそういう悪口書いていて、それとごっちゃになっている可能性もあるのよね)という見解に、多分かすかだが同意したような記憶がある。私はたしかに、この少年が折に触れてドリトル先生をほめるのが、何だかうっとうしかった。「航海記」を読んだあとで、「郵便局」とか「キャラバン」とか「サーカス」とか読んだのだが、そのときはスタビンズ君はまだ登場していなくて、それらの作品は文句なしに、非の打ち所なく、完全に、完璧に、面白かったし楽しめた。スタビンズ君が出て来た後の「月へ行く」などは、やはりちょっとそこまでは楽しめない。他にもいろいろ理由はあるかもしれないが、この少年がいるということが、一因にはなっている気がする。

でも、そういうことはこの際わりとどうでもよくて、作品の出来不出来とはまた別に、私がスタビンズ君の登場する話を心から楽しめないのは、単純に彼に嫉妬しているからじゃないかと思うのだ。ドリトル先生を独占できないのがいやだとか、彼がうらやましいとか、そういう心境もあるかもしれない。
更にもうひとつ言うなら、別の話でも書いたように、私は作者が肩入れして、やたらに美化してほめる登場人物が、誰もかれも、あまり好きになれないのだ。「赤毛のアン」シリーズでも、アンが傾倒するミス・ラベンダーとかポール・アーヴィングとか「小さなエリザベス」とかギルバート・ブライスとかには、あんまり魅力を感じない。嫌いというより関心がなく、何となく目が素通りする。その人たちについての部分を何度も読もうという気になれない。

もしかしたら、実際にその人たちは飾り立ててほめあげられる割には、あまり魅力的に描かれてないのかもしれない。または単に私の嫉妬かもしれない。どっちにしても私の中では影が薄くなりがちだ。
ドリトル先生も、スタビンズ君がいない話では、すごく魅力的で私は大好きなのに、彼が登場して先生の美点をほめちぎると、何となく、先生その人にあまり魅力を感じなくなってしまいそうになる。つまらない人に思えて来る。スタビンズ君のようなたかが子どもに、そうやって評価されてほめちぎられている先生が、何だかちっぽけに見えてきてしまう。そんな気持ちを抱かせてしまうスタビンズ君が、うっとうしい。

動物たちが先生を心酔し尊敬しているのは、なぜかちっとも気にならない。何しろ先生は動物のことばが話せるたった一人の人間だから、動物たちが自分たちのために必死に先生を大事にするのは、わりと自然に納得できる。でもスタビンズ君には、そういう切実な状況はないわけで、ただ同じ人間として先生を「評価」しているその態度は、何だか非常に傲慢に見える。
こんな私の心境って、どのくらいの数の人が共有できるものなのかなあ。

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カツジ猫