怒りが書かせた(水の王子覚書18)
「沖と」をものすごい早さで書き上げてしまったのですが、あらためて少しつけ加えると。
そもそも「水の王子」は、「岬まで」でかなりすっきり終われたので、これでいいと思っていたのですが、急にエピローグみたいな感じで、けっこう長い「沖と」ができてしまいました。
ひとつにはぶっちゃけ「岬まで」の最後に登場した、マガツミのかたまりクシマトを、もうちょっと活躍させてやりたかったというのもあるのですが(笑)、やはり正月の能登の地震が影響していたのは否めません。
これまでももちろん、いろんな災害はあったし、これからもあるとは思いますが、今回の地震がそのどれともちがって、ものすごかったのは、政府の被災地への放置のしかたのすごさです。
細かいことをもういちいちは言いません。とにかく毎日胸がつぶれるほどにひしひしと感じていたのは、首相をはじめとした政府の責任者たちの、被災者と被災地へのまったくの共感のなさ、痛みや苦しみを感じようとさえしていない、あまりにも無神経な無関心ぶりでした。
「沖と」を書きながら、感じていたのは、こんなことを題材にして、しかも脳天気なほど幸福な展開や結末にするという作業が、許されるのかということでもありました。
しかし、私がこの作品を書いている間じゅう感じていたのは、常にあらゆる点でずきずきと感じていた、被災地への対策の遅さや薄さへの怒りでした。人の上に立つ立場なら、せめて私ならこれくらいのことはできないか、そんなことをずっと考えつづけて、それが支えというか推進力になりました。
指導者も当事者も、その場に立てば当然あやまちも犯すし、とまどいもする。それでもとにかく、しようと思えばできることは絶対にあるはず。それも考えたし、書きたかった。
村の人たちも読めばおわかりのように、何度も醜さをあらわにし、混乱も生まれます。それも当然だし、避けられはしない。そこからも目をそらしたくはなかった。
悲惨な現実を無視し、そううまく行くものかという展開を非現実的な空想で描くのも、私にとっては、そうでない現実へのひとつの怒りであり、私にできる戦いのひとつのかたちです。逃避ではない。現実の否定でもない。幸せ過ぎる場面のすべてが、そうならなかった現実への、私の激しい怒りです。
この震災に限ったことではありませんけれど、どれだけたくさんの動物たちが、イナヒと同じような絶望と混乱にかられて、無人の町をかけめぐったか、それを思うだけで、私は目まいがするほどの悲しみと怒りに包まれる。しかも私に彼らは救えない。そのこともずっとかみしめながら、あの場面を書かずにはいられなかった。
虫のいい結末と言われるかもしれませんが、この作品の根底にあるのはすべて、私の現実への怒りです。
そして、あえて念をおしておきたいのですが、タイトルにもなっている「沖と」のことばを最後に口にする人物は、この結末を知りません。彼は現実の被災地と同じように故郷が消えたと思っていて、それでも、あの一言を言うのです。
「水の王子」のシリーズすべてがそうであるように、震災や被災地を題材にしていても、「沖と」はまた私自身の人生や現在の再現でもあります。だから、彼のこのことばもまた、私自身の今と今後に関する決意でもあります。
優しさや甘さの背後には、少なくとも私の場合、いつも燃えるような怒りがあります。許せない数々のものに対する。
イラストは、これも間に合わなかったけれど、ラストに使う予定でした。