指原莉乃氏の発言について
検察庁法改正案の今国会での見送りが決定した。それに関して私が書いた文章の中で、「勇気を持って抗議の発言をした有名人たちへの感謝」を述べた一節が、この問題について賛否を示すのを避けた指原莉乃氏への批判ではないかという質問をいただいた。
以下、それに回答する。
そもそも私は指原氏のその発言の映像を見ておらず、ご本人のこともほとんど知らない。したがって、特に意識して批判や攻撃をしようにも材料がない。
ご指摘をいただいて、映像を探したが見つからず、関連する記事をいくつか読んで、その範囲での回答になる。
まず私は、今回の件に限らず、芸能人や著名人、スポーツ選手などが政治的意見を述べるのは当然で大いにあっていいことと思うし、もちろん、発言をひかえることも、よくわからないから決められないと(今回の指原氏のように)発言することも、まったく自由だと考える。この件で、抗議の発言をした人に対してと同様に、指原氏に批判が集まることも、決してあってはならないと考える。
それを大前提として、以下に私の好みを述べる。
今回、芸能人の政治的発言が話題になりはじめた時、私はツイッターで次のような発言をした。
ツイートしたタレントに「がっかりしました」と言ってるファンがいるの? ヘタレやなあ。私なんか自分の大好きなタレントが、トランプと安倍と原発と改憲を支持しても、ぜんっぜん気持ちは変わらんぞ(笑)。
しかし、これにつけ加えると、私は自分の大好きなタレントが、トランプや安倍や原発や改憲について、「支持するかどうか決められない。決めている人はあまり考えないで決めているんじゃないだろうか」といった、今回の指原氏のような発言をしたら、まちがいなく大嫌いになるか、それ以上に完全な無関心になるだろうということは、告白しておかなくてはなるまい(笑)。
これは指原氏への批判ではない。具体的に今回の件をさしてもいない。何よりも私の好みの問題である。そして私ごときに嫌われても無関心になられても、指原氏は痛くもかゆくもないだろうから、何も気にされる必要はない。
しかしながら指原氏ご本人あるいはマネージャーや所属事務所が、超一流をめざすタレントとして、私のような者も含めて、あらゆる層に好かれ支持されることを願い、その方法を知りたいと思っておられる可能性もあるから、なぜそこで私がそう嫌いになるのか、ごく簡単に説明する。
「私にはわからない」「私には決められない」と言わざるを得ない場合もある。映画「わが命つきるとも」で、トマス・モーアが国王の結婚問題に関して、あくまで回答を拒否しつづける場面がこれだ。自らの信念を述べれば死刑とわかっているから、生き延びるために国王の気に入る回答をするのを拒否するために彼はそうして、ぎりぎりまで抵抗する。
かつて学生運動が盛んだったとき、バリケードの中で、自分の見解を問い詰められた時、私も同じように、「わかりません」「考えてみます」とくり返し続けて回答を拒否した。
実際にそうだったからということもあるが、そこで回りに反対する意見を表明すればリンチにあって殺される可能性もあったからだ。
そもそもそうやって回答を保留しつづけることさえも、同じ結果を呼ぶ可能性もあったが、一応、さんざん罵倒されただけで、そこはそれですんだ。
私がその時、回答保留を貫けたのは、「わが命尽きるとも」の映画を見ていたからだ。そうでなければ、自分の意見に確信がなくても私はあえて周囲と反対のことを言って、殺される道を選んでいた。それが、あの映画を見るまでの私の美学で信念だった。
あの映画を見たときに、私が根底から自分の生き方をひっくり返されるような衝撃を受けたのはそこだった。正しいことのために、生き延びるために、そうやって、逃げつづける生き方を貫く戦い方もある。それを初めて、この目で見たのだ。
言いかえれば、それまでの私はずっと、たとえ確信がない場合でさえも、「わからない」「決められない」と口にすることは、罪だし恥だと思っていた。特に、そう口にすれば何らかのひどい目にあうことがわかっていることを、言わずにいるのは最低だと思っていた。
脅迫されたり、強制されたりして言わされそうになることは、たとえ正しくても絶対に、その反対のことを言わなければ、脅迫や強制を認め、相手をつけあがらせることになると思っていた。逆にまた、そのような力から沈黙を強制され、発言するなと脅かされれば、少々確信がないことでも、とにかく発言しておかなければ、やはり相手を図に乗らせて、ろくなことにはならないと思っていた。
その感覚は正しいと私は今でも思っている。「わが命つきるとも」を見て覚えた新しい戦い方を使うことがあっても、それはあくまでひとつの武器にしか過ぎない。私の感覚では、「わからない」「決められない」は、圧倒的な力の前に強制されて自分の本心が言えない時にだけ使用を許されるものだ。わかりやすい言い方で言えば、決してえらそうに堂々と口にするようなものでもなければ態度でもない。
ただし、今回指原氏には、その圧倒的な力や強制力が、「抗議のツイートをしなければいけない」という働きかけや周囲の雰囲気であったのかもしれない。それに対する抵抗と逃走としての、発言であったかもしれない。そこは私にはわからないし、だから軽々に指原氏を批判はできない。
このような圧力や強制力の本体は、時の流れでいくらでも変わる。見定めるのは難しい。一番簡単なのは遠回りのように見えても、結局はいろんな問題を判断する時の基準となる、ここだけは譲れない自分の信念を持つことだ。まちがってもいいし、変えてもいいから。
何の本で読んだか忘れたが、これに関して記憶に残っている文章は、「地獄の釜の最も熱い場所は、道義的な問題に関して中立を守った者のために残されている」(検索したらダンテの「神曲」でした。「地獄の一番熱い所は、道徳的危機に瀕している時に、中立を標榜する輩が落ちる所である」だそうで)というものだ。悪を働いた者以上に、中立を守った者に厳しい罰が待っている。多分出典は西欧なのだろうが、これは儒教の説く、最低の人間「郷愿(きょうげん)」の規定にも共通する。とげとげしくて気難しい「狷」や、はちゃめちゃすぎる「狂」よりも、つるつるぬるぬる温厚で無難で人に好かれる「郷愿」こそが徳の仇と呼ばれるのだが、やっかいなのは、この最低人間は、最高の理想像である「中庸」と一見似ていることなのだ。私がこれですぐ思い出すのは「赤毛のアン」シリーズの「アンの幸福」に出てくるヘイゼルという少女なのだが、まあその話はまたにする。
私自身、いろんな状況の中でやむを得ず、どっちつかずの立場をとったことは多い。今だってそうかもしれない。そのために憎まれたし、逆に憎みもした。失った人間関係も多い。確信し覚悟した選択だから後悔などはしていないが、中立を守り、立場の表明を避けるということは、地獄の最も熱い淵だけでなく現世でも、旗幟鮮明にすること以上に危険や失うものも多いのだ。
指原氏について、もうひとつ批判されているのは、政治的発言をした他の人たちに対して、「よく考えずに言っている人もいるのでは」ということばだ。それもあるいは事実かもしれず、指原氏の印象に残るものでもあったかもしれないが、たとえそうであったとしても、これはやはり不用意で軽率だ。手練手管という意味でもまずいし、礼節や人間性という点でも疑問を抱かれかねない。何よりも、自分の信念や生き方を表明するとき、それとはちがう道を選んだ他者を攻撃するのには、よほど資料や証拠がそろっているのでもない限り、十分に慎重でなければならないだろう。
私は三浦百恵氏が山口百恵としてデビューした初めから、声や口調が好きで、それ以後有名になってからでもその発言や行動の数々に、一度も裏切られなかったという、珍しい幸福に恵まれた。中でも彼女が結婚を発表して引退する前のインタビューで、「女の幸せは結婚することですね」と執拗に水を向ける司会者を拒否しつづけて、「自分はそうだが、他の人がそうとは限らない」と言い続けたときの感動と信頼は忘れられない。このホームページの「グラディエーター」関係の論文の中の「かまいたち」(長いです)の一部にある、その時の文章を引いておく。
これも余談だが、彼女の引退直前のインタビューで堺正章が「女の幸福は結婚ですよね」と水を何度も向けるのに対し「私はそうだが、人によってそれはちがう、いちがいに言えない」とくりかえして譲らなかった彼女に、堺が最後に「引退したからには二度と戻って来ないで下さい」と強い口調で明らかに腹いせで言ったのも忘れられない。あら、と軽く驚いたように静かに笑った彼女を見て、「もう、こんな状況だったら、こんな心境の時だったら、『それが女にとって幸福』とあなたが言っても私は許す。嫌いにはならない」と弱気にあきらめかけていた私は、何と激しく彼女を愛したことだったろう。何とすぐれた芸能人を失おうとしているのだろうとあらためて痛感したことだったろう。
ちなみにこの時以後、堺正章氏の評価も私の中では最低以下に固定している。さだまさし氏の「関白宣言」以来、彼がどんなにいい歌を歌っても聞くだけで耳が汚れる気がするのも、最近猫の飼い方を訴えた宣伝にあの歌が使われると猫まで嫌いになりそうなのも同様だ。そう言えば、「関白宣言」の歌がやっと下火になったころ、すがすがしく軽やかに入れ替わってヒットチャートに上がってきたのは山口百恵の「しなやかに歌って」だったなあ。
一応はこんなところで。検察庁法改正案についての攻防は、まだまだ先がありそうですから、この芸能人の政治的発言問題も今後いろいろ考えて整理しておく必要があるかもしれません。その参考にもなればと思って、私の見解をとりあえずまとめておきました。