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新約聖書の例え話(水の王子覚書23)

「湖よ」の覚書でも書いたが、だいたいの構想も方向もできているのに、何だか次に進む推進力がない時には、ひょいと思いがけない題材がきっかけになって、後が続くことがある。「湖よ」の場合には身内のしょうもないエピソードが、とっかかりになって終盤につなげられた。

「川も」の場合、中盤になって、またちょっととどこおった。何をかくそう、この作品で私は自分が日常で、だいたい「あー、この人とは適当なつきあいでいいな」みたいな基準にする、はっきり言うと好みに合わない相手のことを、洗いざらい書いてみよう(その前に考えてみよう)という、我ながら地獄に落ちそうなおっかないテーマを追求していた。

以前からときどき書くが、個人的なことに関する限り、私にはあまり人の好みがなく、大抵の相手は好きだし、少々のことはがまんする。それがあきらめる、愛想をつかすということと、どれだけ差があるかは自分でもよくわからない。私は自分自身もたいがい欠点だらけのわがまま勝手な人間で、家族も仲間も友人も、よく見逃して生かしてくれていたという実感があるから、他者から少々の目に合わされても、それに見合うことを何か自分はしたのだろうという気しかしない。だから、他者への要求水準はものすごく低い。

だから、このテーマで、「何をされたら自分は許せないか」「どういう人が嫌いか」を考えるのには、白状するとかなり苦労した。これはもしかしたら、自分でも気づかない内に、許してくれる、快い相手だけをいつの間にか周囲に集めていて、ものすごく快適な状況を作ってしまっているのかもしれない。

まあそれでとにかく、一生懸命、身近な親しい人たちとのつきあいの中で、日常的に私がイライラムカムカガックリすることを、あくまで自分は棚に上げて見つけて探して見るという、疲れる作業をしたあげくに、いくつか見つかった一つは、「さんざん私への愛?を口にし、人にも触れ回って、私に近づく他人を排除するぐらい独占しようとしているくせに、いざここ一番というときには、絶対に私の要求を見逃すはずす後に回す軽視する」ということかなあということで。

あーもう今そんなこと言ったら、全然そんなことない人に限って「わー、私のことだー」と落ち込み、当の言われてる本人は「ですよねー。そんなのがまんできませんよねー」と本気で同感してきて私を二重三重にあきれさせることが、これまでの経験上わかっているので、大変困るし心配なんですが(笑)。後者も別に嫌いじゃないけど、前者には実に申し訳ない。とりあえず言っとくと「私のことだー」と思った人、絶対にあなたのことじゃありません。そんなことちらっとでも思った時点で、あなたはそういう人じゃない(笑)。

まあそれでとにかく、それをどういう風に書こうかと迷ってる内、ふっとなぜか新約聖書のキリストの話を思い出してしまって。でもあんまり長くなるから、二つに分けるわ。ごめんなさい。(つづく)

ちなみにこれは私の家に昔からあったイエスの画像。

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カツジ猫