アマテラスとハヤオ(水の王子覚書22)
「水の王子」を書き出したのは私の三十代の終わり、つまりほぼ五十年前です。現在このホームページで公開中の第四部まで書いて、五部が書けずに四十数年たちました。一昨年突然一気に第五部「村に」が出来てしまって、現在紙本と電子書籍で発売中です。
さほど違和感もなくするっと続きが書けたのも、四十数年間、なーんとなくいつも筋だの構成だのは考えていたからです。前にも書きましたが、当初の予定では、第五部の主軸となるのは、巨大な秘密を抱えながら、一見なにげなく生きているアメノワカヒコの、孤独と恐怖、それを克服しつづける強靭さのはずでした。
その設定は基本的には変わっていないのですが、主軸とはなっていません。実際の作品では、もっと大勢の人物が入り乱れ、「村」そのもののあり方が作品の中心となっています。
しかし、思い起こせば(笑)、ワカヒコの孤独な戦いよりもっと以前に私が「村に」の中心として考えていたテーマは「アマテラスの復活」と「それにおいて行かれるハヤオ」の悲劇でした。
今さらながら以下ネタばれです。
第三部「都には」で、ハヤオはアマテラスを裏切り、見捨てます。そのためにアマテラスは悲惨な死を遂げます。そのことにさえハヤオは気がつきません。
これは第二部「草原を」のラストからひきつがれる問題で、それはそのまま、私の高校時代の終焉と敗北、その結果の大学での学生運動の中で、以前の信条や生き方を失ったままで活動しなければならなかったことなどを反映しています。幼いときから高校時代までに私が育て上げ築き上げ守って来た理想とは、もちろん私自身とは差がありすぎますが、アマテラスそのものでした。強さと明るさ。冒険心と良心と正義感。自由奔放で、しかも倫理的。その他もろもろ。
幾分かは私の母がモデルかもしれません。彼女の欠点や弱点は今はいろいろよくわかりますが、それでもその生き方は基本的には私の理想で目標で基準でした。対抗心さえなかったぐらい私は母に心酔し、肉親ということとは関係なく、一人の人間として高く評価していたと思います。幻滅も失望もしながらも、その大枠への支持と共感は今も変わってはいません。
でも、そのような生き方を私は大学では貫けなかった。そのへんのいきさつは「闇の中へ」の冒頭でも触れていますが、要するに私は自分が戦えない、味方を裏切る人間であることを、一人でひっそり、知りました。
多分、アマテラスはよみがえるし復活する。けれどもう私は自分が彼女にふさわしくないこと、ともに歩めないことを知っている。その悲しみと淋しさを、「村に」では書こうと思っていました。というか、それ以外に書くことがありませんでした。
アマテラスがよみがえり、アメノウズメをはじめとしたタカマガハラの人々に喜びの中に迎え入れられるとき、ハヤオはそれを遠くから見つめるしかありません。もはや彼女との旅はできない。もはや彼女の前には出られない。その絶望はそのまま私の絶望でした。彼女をとりまく華々しく輝かしい行列が山に登って行く間、浜辺から一人でそれを見送るハヤオの姿と心境を、心のなかで瞼の裏で、どれだけ描いたかわかりません。そのたびに苦しみながら。そのことに慰められながら。
けれども五十年近い現実の積み重ねの中から、私はもっと複雑で、あえて言うなら豊かな「村に」を作り上げることができました。アマテラスの復活さえも、さりげない小さな事件のひとつに過ぎず、彼女自身があっさりハヤオを受け入れました。昨日に続く今日のように。裏切りも別離も何一つなかったかのように。
事実、彼女はずっとハヤオを見つめて助けてくれていましたし、それはおそらく現実でもそうでした。私の中のアマテラスは、私を見放してしまうことはありませんでした。
ただ、「川も」を書いていて、これまでこのシリーズで書かなかった、いくつかの自分の内面に触れる中で、私はやはり、アマテラスへの裏切り、その結果の彼女の喪失、彼女との別離は、ハヤオに確認させておきたいと思いました。「村に」では書かないままだった、その苦さと悲しみを、抱えながらハヤオは生きていくしかない。私自身もそうであることの覚悟は決めておかなくてはならない。
ハヤオがツマツ母娘の会話をもれ聞いて、夜の闇の中で思い出すアマテラスへの思い出は、そういうわけで、なくてはならないものでした。
そういう点でも「川も」は、このシリーズの中で欠かせない役割をになっていると思います。
なお、アマテラスは「岬まで」にもしっかり登場していますが、その現在の日常は「渚なら」の中の「夏の雲」をごらん下さい。