水の王子・「岬まで」11
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あの人の声を覚えている。
いつからか私の耳は聞こえなくなったが、あの人の深く静かに響く声は私の記憶から消えることはない。
昔、ある人を愛した、とあの人は言った。
まだ少年のときに。誰よりも深く、激しく。
それは私の弟だった。あの人はそう言った。
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私とあの人は、船のへさきに並んで座って、海を見ていた。
月はなかった。星だけが一面に空に輝いていた。
あの人の青白い、とぎすまされたような鋭い線の横顔。夜空よりも黒々と深く、憂いにみちた目。
大きな館で、たくさんの兄弟たちと暮らしていた、とあの人は言った。
身分の高い一族だったと。王の位にある父のあとを誰がつぐのかと、年のはなれた長兄や次兄は、ことあるごとに気にしていたと。
まん中より下にあたる私には、そんなことはどうでもよかった。あの人はそう言った。ただ弟に夢中だった。末の弟。誰よりも愛らしく、無邪気で、私を慕ってくれて。
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私は思う。その弟は、今のこの私より、あなたを慕っていたのだろうか。愛していたのだろうか。
初めて会ったときから魅せられた。すらりと背の高い、ひきしまった身体、長くしなやかな指、白いうなじ。細く濃い眉の下の鋭く澄んで、悲しげな目。高くとおった鼻すじと、めったにほおえまない、ほのかに赤い薄い唇と、白い歯と。
彼の身のこなしは、なめらかとか、きびきびというよりも、ただ整然と、水のように静かだった。音をたてて虚空に鳴る鞭のように、おごそかで、正確で、無駄がなかった。
そして声。ああ、その声! やわらかさも華やかさもなく、ひたすらに澄んで、清らかで、乱れたりかすれたりすることが少しもなかった。語り口もよどみなく、一語一語が明確だった。
誰もが彼に夢中だった。私たちの頭である海賊の長クエビコまでが、いつもうっとりと彼に目を奪われていたのを皆が知っていたし、ふしぎにも思わなかった。酒の席で、夜の甲板で、クエビコが彼によりそい、口づけするようにほおをよせ、時に抱きよせるのを何度も見たが、当然としか思えなかったし、不快にも感じなかった。あの人はそんなとき、何の感情も見せずに端然と身をまかせ、抱かれ、顔をよせられるままになっていた。そこにはたしかに拒否や嫌悪よりも、ある愛と、いつくしみがあった。そして私は、そんなあの人を愛した。そのすべてを、ただ、ひたすらに。
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弟も私も、いつかは大人になる。女を愛し、子どもを持ち、年老いて死ぬ。それは知っていたし、わかっていた。あの人はそう言った。けれど、幼い私たちにとって、そんな未来はまだ永遠のかなたにあった。来る日も来る日も私と弟は館の庭で遊んだ。小鳥を追いかけ、花をつみ、野山をかけ回り、小川で泳いだ。そんな日が終わることなど信じられなかったし、考えもしなかった。
弟の笑い声を覚えている。私にしがみついてくる小さな指も、疲れてよりかかってくる肩の丸みも。彼のすべてがいとおしかった。目を閉じていても聞いていても、見ていると心がかきむしられるほど、私は彼に夢中になった。
他の兄弟たちには皆どこか、いやしい所や貧しい所や弱い所があった。私はそれぞれに彼らのことを好きだったが、そういう所が見逃せなかった。愚かさも。冷たさも。それがかいまみえるたびに、私はそれを忘れられないものとして、彼らの姿に刻みこみ、はりつけずにはいられなかった。
末の弟には、そういうところがまったくなかった。見た目も美しく、すくすくと育っていただけではなく、いつも優しくて、強くて、賢かった。父も、兄たちも、誰も恐れず、無邪気に言いたいことを言い、それはいつも、皆を笑わせ、楽しませた。私たちの皆が彼をかわいがり、そうすることで私たちはたがいを愛することもできたのだ。
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だがやがて弟は成長し、美しい女性を愛し、愛された。
それは全く突然のことで、私には何の準備もできていなかった。いつまでも続くと何の根拠もなく信じきっていた私の少年時代は突然終わり、そして私は、なぜかその時、弟をあんなに愛していたことが、突然恥ずかしく、決して人に知られてはならないことのように思えたのだ。弟とすごした至福の時間のすべてが、いつわりで、にせもので、こっけいなもののように思えた。
兄弟たちは弟の幸福を祝福しているように見えた。やられた、先をこされたと、笑っている者もいた。私は彼らがうらやましかった。彼らのようになりたかった。しかし、その中で私はどうしようもなく、今の自分が味わっている気持ちが他の兄弟とはちがうことに気づきはじめていた。私の弟への愛は、彼らの愛とは違っていた。もっと激しく、もっと深い、何かだった。
私はそれを誰にも知られたくなかった。それがかえっていけなかった。誰にも話せないままに、一人で弟に対する自分の気持ちが何だったかを考えてみている内に、それが次第にひとつのかたちにまとまってくるのを呆然と私はただ見ていた。
…弟が自分以外の誰かのものになるぐらいなら、いっそ殺してしまいたい。
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ある日、弟は久しぶりに女性のもとから帰ってきて、私たちはまたいっしょに狩りをした。いたずら好きな兄弟の一人が、弟を山のふもとに待たせておいて、イノシシを追い出すと言って赤い大きな石をころがして落としてびっくりさせようと言い出した。
「あいつはよけるよ、すばしっこいから」と一人が言った。
「それはどうかな」と危ぶむ者もいた。
私たちはイノシシに見えそうな大きな丸い石を見つけたが、思っていたほど赤くなくて、一人が「火で燃やして赤くすれば」と言い出した。それで皆が調子にのって火をたいて石を焼き、まっ赤になったそれを、やぶの中に押し落とした。
弟はそれにとびつき、大やけどをして、その場で死んでしまった。
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私たちはむざんに焼けこげた弟の死体を見て、ふるえ上がって、そのまま館に逃げ帰った。しかし弟の姿が見えないのに心配して探しに行った母が、侍女たちと死体を見つけて館に運び、手をつくして、元の通りによみがえらせた。
その間ずっと私は、夢の中にいるような気持ちですごしたよ。山に行って、弟をふもとに残して、皆で石を赤く焼いて…何もかもが夢のようだった。何かどうしようもない者の手が、兄弟の姿をした影のようなものを動かして、私が心の奥底で願っていたことの方へ一歩々々近づけて行くような、そんな気がしていてね。
ひとつ、はっきりしていることがある。私は弟が石をよけはしないと知っていた。彼はやさしい。自分の強さを信じている。私たちがイノシシを追い出すと言ったら疑いはしないし、ためらわず飛びつく。他の兄弟たちはいざ知らず、私はそれを知っていた。弟を誰よりもよくわかっていたから。だからあのとき「これは危ない」と言って皆をとめるのは私しかいなかった。私ならできた。それなのに、しなかった。
やはり私は弟を殺してしまいたかったのか。それとも、それほど弟と深く心をつながらせていたことを皆に知られるのが恐かったのか。どちらともわからない。
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母は私たちを責めなかった。父は館から離れた城に暮らしていたから、このことをほとんど知らないままだった。弟はまもなく回復し、元通りどころかそれ以上に美しくなって、館の庭を歩いたり、私たちと話をかわしたりしはじめた。
兄弟たちはばつが悪かったようだが、それなりにそんな弟をなぐさめたり、はげましたりしていた。
ありえないことなのに私はふと、昔が戻ってきたような気がした。弟はもう女性のところには帰らず、いつまでもここにこうしていてくれるのではないか。そんな気がしはじめていた。
愚かだろう?
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あの人は、こんな話を一度に私にして聞かせたのではない。あるときは夕日の中で、あるときは星空の下で、とぎれとぎれに、ぽつりぽつりと、ひとり言のように語って、私が首をふったり、かしげたり、うなずいたりするのをながめては、しばらくしてまた口を開くのだった。剣をみがきながら、帆綱をつくろいながら、地図をながめながら。時には、上の空のように私の髪を静かになでた。何かを思い出しているように。(つづく)