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水の王子・「岬まで」12

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 ある夕べ、私は昔のように弟と花の中に座っていた。何気なく花を手折って私が、この花を最初に見たときのことを覚えているかと聞くと、弟は目を見張って、けげんな表情になり、困ったように首をふった。
 その時に、何かを感じた。他の兄弟は気づいていなかった何かを。「私の名がわかるか?」と聞いてみた。弟は黙って答えなかった。
 私にはわかった。弟は私たちの名を忘れている。幼いときのことも、いっしょに育ったことも、狩りに出て殺されかけたことも。
 あの女性の名はどうだろう? 私は聞かずに、そのままにした。弟が何をどれだけ、どこまで覚えているかなど、確かめるのが恐ろしかった。
 ただ、あれほどに私にとってなつかしい、大切な日々のすべてを、もう弟は覚えていないということがわかった。
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 やがて、女性のもとから使いが来た。弟は彼女のもとに帰ることになった。別れる前に私たちはまた狩りに出た。静かな、明るい山の中で、私たちは鳥を射たり、鹿を追ったりして過ごし、その内に木こりたちが斬り倒して、細かく割ろうとしている大木の、くさびを打ちこんだ狭いすき間に誰かが入ってみないかという話になった。
 何人かが弟の顔を見た。すると弟がいきなり笑い出した。昔と同じ明るい声で、ただ妙にけたたましく勝ち誇ったように。
 その時私は、弟がすべてを思い出したのだとわかった。私とすごした幸せな日々も、私たちに殺された日のことも。
 どこまでそれがわかったのか。誰もがわけもなく、ぞっとしたのではないかな。弟の笑い声はますます高まり、狂ったように笑いころげる彼に応ずるように、何人かが、ひきつったような笑い声を上げながら彼をつかまえ、大木のわれ目に押し込んだ。弟はその間から、私たちを見て笑っていたよ。何もかもわかってる、とっくに知ってる、ずっと前から。そう言わんばかりにね。
 くさびをはずしたのは私だ。いっしょに何人かの手がのびて来たが、木切れをはねあげ、それが外れる手ざわりを私のこの指が覚えている。もういやだ、と思った。人を愛するのも、失うのも、喜びと悲しみの間を行き来するのも、そもそも何が喜びで悲しみなのかわからないまま苦しみつづけるのは、もういやだ。
 何もかも、すべて、おしまいにしたかった。
 一瞬のことだったはずだ。なのに大木のわれ目がゆっくりと閉じ、弟の顔が、頭が、その間で砕けて、崩れて行くのを、まざまざとこの目で見た。手も足も身体も折れて粉々になり、気がつけばすでにわれ目はぴったりと閉じて、その間から、とめどない血が流れ出している。弟の着ていた白い衣のはしばしが、わずかにはみ出し、それもみるみる真紅に染まる。
 いつの間にかあたりには灰色の霧が下り、すべてをおおいかくそうとしていた。底しれぬ限りない静かさの中に、弟の明るい笑い声がまだひびき続けているようだった。
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 翌朝、目をさますと、母も侍女たちも召使いもすべていなくなり、館の中は空だった。山に入ってみたが、あの大木のあった場所を私たちは見つけられなかった。霧はますます濃くなって真昼なのに、木々のかたちも見えないほど。私たちは荷物をまとめて父の城に行き、母と弟がいなくなったことを告げた。
 父は手をつくしてさがしたが、母は見つからず、私たちはそのまま城で暮らしたが、数年後、父は死んだ。長兄があとをついで、私たちは彼に従ってともに国を治めたが、母を失い、弟を殺した記憶は私たちの中から消えず、誰もがたがいに心を許しあえないまま、ぎくしゃくとした月日がすぎる内に、数人が姿を消し、城から去った。私もその一人だ。兄の一人から、くさびをはずしたのはおまえだろう、と言われたということもある。
 その後、長兄と次兄は争い、すぐ近くに次兄が別の町を作って、ともにタカマガハラを味方につけようと言い争っているらしい。だがもう私はそれに興味はない。
 クエビコとは、たまたま会った。彼はどこか弟を思い出させる。大きな恐ろしい力を持ちながら、その使い方がわからない。多分、弟より、ずっと愚かで平凡な男だが、心の底に流れる善意と清らかさは、ふと弟を思い出させる。
 彼を不幸にしたくない。回りを不幸にさせたくもない。そのために、できることをしている。もちろん限りはあるが、そんなことを苦にはしない。
 一番かんたんなのは、彼に「私はこの世から消える」と言わせることだろう。彼がいなくなれば、たとえば「この世のすべてが滅びる」「あらゆる生き物が死ぬ」と口走って、それを誰かが聞いてしまって実現するという恐ろしい危険から私たちはまぬがれるのだから。
 だが、まだそれはしたくないのだよ。いつか彼が、誰もを幸せにし、すべてを救う、よいことばを思いつき、それを口にして、皆がそれを聞くような、そんなことだってあるかもしれないのだから。
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 あなたはとても恐ろしい賭けをしている、と私は言った。
 彼は黙って答えず、ただ淋しそうに笑った。
 それからまもなく、私の耳は聞こえなくなった。波の音も海鳥の声ももう私の耳には入らない。
 だが、訓練を重ねた私と仲間たちは、さまざまな合図で、一糸乱れず船をあやつり、戦いをすることが今ではできるようになった。
 帆布の上に、さまざまな記号を書いて、打ち合わせや、やりとりを行うことも、今ではかなり普通になった。
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 私は、あの人の目を見る。そうすると心の中にあの人の声が聞こえる。
 信じている、とその声が言う。
 助けてくれ、とその声が言う。
 私はただうなずく。
 昔、ある人を愛した、とあの人は言った。
 それは私の弟だった、とあの人は言った。(つづく)

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カツジ猫