水の王子・「岬まで」13
第六章 太鼓が鳴って
どんどこどん。どんどこどん。
ぴーひゃらひゃら。ぴーひゃらひゃら。
ちんとんしゃん。ちんとんしゃん。
朝から今日もにぎやかに、沼の上には太鼓や笛の音が流れている。
「あの子たち、やっぱりうまいのねえ」ヤガミヒメがオオゲツヒメのまっ白い豊かな胸に顔を埋めながら、眠そうにつぶやいて笑った。「こんなに毎日やかましいのに、聞いてていやじゃないんですもの」
「そだね」オオゲツヒメもヤガミヒメのあらわになめらかな肩を抱きながら、あくび半分、あいづちをうつ。「起きる? かわいこちゃん」
「今日は何する? 村に行く?」
「んーん、何もしないで、あんたとこうして寝ていたい」
「そうは行かない。冬のしたくをしなければ」
「それだって、毛皮を干して、風を通すぐらいでしょう」
「ああもう、ほんとに、めんどくさがりやなんだから」
どんどこどん。どんどこどん。
ぴーぴーひゃらら。ぴーひゃらら。
「もうすぐ村じゃ取り入れの祭りねえ」オオゲツヒメがぼんやり言った。
「そうよ。あの子たち、今年も太鼓を打つのかしら」
「もちろん、そうに決まっているわ。村の長のおじさんがそれはもう、楽しみにしているもの」
「村人たちもよ。あの子たち、すっかり人気者になっちゃって」
ぴーひゃらら。どんどこどん。
「誰が一番人気があるのかな?」オオゲツヒメが寝返りをうって、むきだしの白いふっくらした腕をふとんの上に投げ出しながら考えるように首をかしげる。「あまつひこね?」
「小柄だけど、太鼓のばちが、手の中でくるくる回るみたいなのがすてきよね。でも、クマノクスビも身体は大きいのに、きびきび動いてカッコいいわよ。力が強いからかしら、太鼓の音がずんずん響いて、身体がゆさぶられちゃいそうだし」
「イクツヒコネはその逆よね。のっぽでほっそりしてるから大した力はなさそうなのに、太鼓の音も力強いし、笛は一番うまいのじゃない?」
「しゃべってるように吹くのよねえ。指が長いからかな、琴をひくのも音がきれいだし」
「若い娘も若い男も年寄りも子どもも、皆が夢中になっちゃうのよね、三人の誰かにさ」
ぴーひゃらぴーひゃら。ちんとんしゃん。
どんどこどんどん。どんどこどん。
「あのね、村長のおじさんたら」オオゲツヒメがくすくす笑う。「娘の誰かをあの三人と夫婦にして、この村の長にしたいともくろんでいるみたいよ」
「あー、そんなの無理無理。あの三人が同じところにずっといるわけないじゃない」
「ここに居着いてもう何年? そう言えばちょっと長すぎるわね」
どんどこどん。ちんとんしゃん。
ぴーひょろぴーひょろ。ぴーひょろろ。
※
「今日は曇っているのねえ」オオゲツヒメが首をねじって黒い豊かな髪を背中に広がらせながら、長い廊下の方を見やった。「沼の水が光らないわ」
「そのかわり、煙があがっているように一面霧がかかっているわ」ヤガミヒメも半身起こした。「あちこちきらきら光って、雲の中にでもいるみたい」
二人は低い広い寝台から下りて、それぞれに衣をまとった。オオゲツヒメは白っぽいばら色、ヤガミヒメは金色がかった紫の衣装である。下袴はどちらも濃い緑色。黒い毛皮の浅い沓をはく。
広い沼の上は縦横に人ひとりが通れそうな細い橋がかかる。あちこちにふくらむように、住まいをかねた寝室や休み所があった。橋は廊下のように、長く入り組んで四方に伸び、ところどころに氷を取りに沼に降りる階段があって、大小の小舟がつながれている。小さい島が点在して橋を支え、その一つひとつから大小の木が生えて、氷の上に枝をさしかわし、花びらを散らす。氷のわれ目にたまった水の中からは、すきとおるような葉と花を持った水草が生えていて、あたりの氷に淡い影を反射させる。
村人たちは勝手に氷を取りに来る。それを売ったり、使ったりする。そのかわりにと持ってきた野菜や肉が階段や廊下のあちこちに、かごに入れておいてある。大した量ではないが、三兄弟と二人の女には充分すぎる。
※
ほのかな朝の風に吹かれて、二人の女は廊下のような橋を歩いた。両側の低い欄干は今は霧につつまれて、二人の下半身は少しはなれるともう見えない。
ぴーひゃら、どんどこ、ちんとんしゃん。
どんどこどんどこ、どんどんどん。
曲がりくねった廊下を歩いて行く内に、太鼓の音は遠くなったり近くなったりした。
「ねえ、誰かもう、氷を取りに来たのかしら?」オオゲツヒメがふと足をとめた。「音がしなかった?」
「うん、さっき、その下の方で、小舟の音は聞いたけど」
「あら、私はそれは気づかなかった」
この沼の氷は溶けてしまうこともあるが、多くはそのまま宝石のように輝いて残るため、貴重な石として、取り引きに使われることも多い。あまりまだ広く知られてはいないし、村人たちも警戒して旅人たちは近寄らせないようにそれとなく見張ってもいるが、自分たちは遠慮がちに珍しい貝や木の実と同様に、ときどき取りにやってくる。二人の女や三兄弟の寝場所や居場所も決まってないので、そんな村人と行き合ったり、通りしなに寝姿や食事の様子を見られることもままあったが、たがいに気にしていなかった。時には勝手に掃除や料理や柱の修理などをしてくれて、黙って去って行く村人もいる。
だからふだんは人の気配も気にしない。今朝の二人が耳をそばだてたのは、少し遠くの前と後から近づいてくるその足音が、変にしのびやかで、こちらに気づかれないようにしている気配があったからだ。
どんどこどんどん。どんどんどん。
「太鼓の音の方に行こう」オオゲツヒメがささやいた。「彼らといっしょにいた方がいいよ」
「だけど今、かなり離れちゃってるね」ヤガミヒメが眉をひそめた。
「でも、あたしたちの方が道には詳しいもの」オオゲツヒメが早口に言う。「霧の中だし、上手に回り道して行けば、よそ者よりはきっと早く、三人のとこに行きつける」
うなずきあって、二人はあたりに目を配った。
霧の中、おぼろな大きな黒い影が、前方の曲がり角にぼんやりと浮かびあがる。抜き身の剣がきらりと光る。
「こっち!」ヤガミヒメがささやいて、二人は細く横別れした橋の方向へ、すべるように走った。
同時に今度は、さっきいた後ろの方から、もうかくす気配もない荒々しい足音が近づいて来るのが聞こえた。
※
二人の女は走った。どちらもあわてていなかった。夢を見ているようだったと言えばそうだが、むしろのどかでまのびした毎日の、無防備であけっぱなしな日々だったからこそ、そちらの方が夢のように思えていて、いつかはこんなことも終わると、どちらもどこかで知っていたのかもしれない。
太鼓の音は遠ざかり、笛の音はもうほとんど聞こえなかった。
かわりに背後の、さっき二人がいた廊下のあたりで、誰かと誰かが行きあって、何か話している声が届いてきた。
「その先を右に」オオゲツヒメがささやく。
二人は折れて、さっきより幅の広い橋に出た。小島に移り、そこからあちこちに伸びる細い橋の一つを選んで走りこんだ。
しばらく進むと太鼓の音が近くなってきた。
どんどこどんどん。ぴーひゃらら。
ちんとんしゃん。どんどんどん。
「まるでこれじゃ、鬼ごっこ」ヤガミヒメが息をはずませた。
「命がけのね」オオゲツヒメがささやき返す。「いつか、こうなる気はしてたわ」
「あら、私もよ」
目を見交わして、どちらからともなく二人は笑った。
「でも、逃げられるだけは逃げてやる」
「そ、当然よね」
二人は手をとり、前のめりに身体をのばして、霧の中に目をこらした。
「どっちをねらってるんだと思う?」ヤガミヒメが聞く。
「わかんないけど、あたしかな」
「あたしは自分と思ってた。心当たりがあるんじゃないけど、いつも何だかわけもなく、いきなり殺されるような気がしてた」
「静かに! こっちよ!」
二人はまた細い橋に入った。ななめ向こうの霧の中、橋の上をさっきの黒い影が横切って行くのが見える。
「やりすごせそう」ヤガミヒメが言った。「このまま、霧が晴れなきゃね」
「そうかしら?」オオゲツヒメが足をとめながらつぶやいた。
「あら…」ヤガミヒメも息をのむ。
目の前の橋がひとつ、腐って崩れて沼の中に沈んでいた。そのすぐ向こうでもう三兄弟の太鼓が鳴っているのだが、そこへ通じる道がなくなっているのだ。
「さっき、まちがった所で曲がったわね」オオゲツヒメが首をふった。「ここがこうなっているのは、わかっていたはずなのに」
「祭りのあとで村の人が直してくれるはずだったのよ」ヤガミヒメがちょっと唇をかんだ。「仕事は早めにしとけってことよね」
ずっと後ろの方で足音がした。こちらに通じる道だった。
※
「まだ引き返せる」オオゲツヒメが言って後ずさる。二人は別の分かれ道に入って、またいくつかの角を曲がった。
ちんとんちんとんどんどんどん。
ぴーぴーぴーひゃらちんとんしゃん。
「何だかちょっと調子が変ね」オオゲツヒメが首をかしげた時、ヤガミヒメが立ちどまって「はさまれちゃった」とつぶやきながら、オオゲツヒメに身をよせた。
霧が少し薄れてきて、前方と後方から黒い人影が近づいて来ていた。
二人の女は声もあげず震えもせず、黙ってそこに立っていた。たがいの身体の暖かさを感じながら、どちらからともなく小さい吐息をついたのだった。
「しかたないわね」オオゲツヒメが言った。
「こんなもんよね」ヤガミヒメが応じる。(つづく)