水の王子・「岬まで」14
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どさりと音がして、前方の人影が前のめりに倒れた。ほとんど同時に背後の方で、どたばた争う音がして、「あきらめろ、このバカが」と明るい陽気な声がした。「じたばたすんじゃねえよっつってんだよ」
「クマノクスビ?」オオゲツヒメが声に向かって呼びかけた。
「んだよ。やっとこさ追いついた。おーい、アマツヒコネ、そっちはどうだ?」
「ごめん、くたばっちまったよう」若々しい元気な声がひびいて、小柄な若者アマツヒコネが倒れた影をけっとばして飛び越えながら、はずむような足どりで、こっちに向かってかけよって来た。
「えー、いけどりにしろっつったじゃねえか」クマノクスビはしばり上げた男を足でころがしながら近づいて来て、文句を言った。
「ついつい急所をねらっちまって」
涼しい顔でふりかえるアマツヒコネの後ろでは、やや晴れてきた霧の中、うつぶせに倒れた男の首の後ろに突っ立った短剣がぴかりと光るのが見えた。
「ちょっと待って、あなたがた、この二人をつけてたの?」ヤガミヒメが二人を見た。
「うん、見るからに怪しいやつが剣なんかぶら下げて、あんたらのいる方に行くのが見えたから」
「でも、それじゃ、あれは何?」
どんどこどん。ぴーひゃらら。
ちんとんしゃんとんちんとんしゃん。
どんどこどんどこぴーひゃらら。
アマツヒコネとクマノクスビは吹き出した。
「そろそろやけになってるなあ。調子が狂いはじめてら」
「やっぱりね」オオゲツヒメがつぶやく。「ちょっと変だと思ってたのよ」
「おーい、イクツヒコネー!」クマノクスビが両手をラッパのように広げて口にあてて、大声で呼ばわった。「もういいぞー! こっちは全部片づいた!」
どんどこどんどん、どんどんどん。
やけっぱちのように、ひとしきり太鼓の音がひびいたと思ったら、突然しんと静まりかえり、情けない声が霧の向こうからひびいて来た。
「冗談きついわー! もう死ぬかと思ったよ! 一人で笛吹いて太鼓打って琴鳴らすなんて、ふつうに考えてできるわけないじゃんよー! 二度とやんない、絶対やんない!」
「すまねえなー!」こちらの二人は身体を折って笑い転げた。「んだけども、おかげでこっちは全然警戒されなくてよー、すっかりうまく行ったのさー、おまえも早くこっちに来い!」
「だめだあ、足が動かねえもん!」
「情けねえやつ!」二人はまた笑いこけ、しばりあげた男を二人の女の前にころがした。「どう、見覚えある?」
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二人の女はあいまいに首をふり、やがてヤガミヒメが「あら…」と言った。「この人、たしか、オオクニヌシの兄弟の一人…」
「あんたに求婚しに来て、ふられた一人?」アマツヒコネが目を見張る。
「じゃないかしら。多分ねえ」
「そんじゃ、こっちも?」アマツヒコネは、うつぶせの死体をひきずって来て、あおむけにして投げ出した。
ヤガミヒメは後ずさりしながらうなずいた。「そう、この人もそうだった。二人いっしょに見たらよくわかる」
「二人してあんたを殺しに来たってか?」クマノクスビが口をとがらせた。「何てこったよ。何のためだよ」
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「すんませんでしたなあ」頭のはげあがった、がっしり大柄な村長は他の数人の男女とともに頭をかいてあやまった。「見かけない馬や、変なよろいの兵士がうろうろしてっし、なーんかおかしいと皆で言いあっとったんですが、村がねらわれとるもんだとばっか思っとって、まさかこっちが襲われるとは」
「取り入れがすんで、作物がたくさん倉に積んであったりしたもんだから、そっちのことばっかが気になっててねえ」年かさの太った女も歯をむいて笑った。「あたしどもが、馬のそばにいた一人をだまくらかして、こっちが目当てと聞き出して、それでかけつけて来たんだけど、まったく危ないとこでしたわな。それで何です、姫さまたち、こいつらとお知り合いなんで?」
「昔のあたしの求婚者なの」ヤガミヒメが情けなさそうに言った。「お恥ずかしいわ。ご迷惑をかけたわね」
女は手をふった。「お選びにならんかったちゅうことでしょう? お目が高かったってことでさあね」
「村の方は何ともないの?」
「馬も兵士も皆つかまえて閉じ込めとります」若い男の一人が答えた。「命令に従ってるっていうだけで、何か考えがあるって風でもなかったよ。でも求婚者って何? この二人ともってこと?」
「兄弟十人で、まとまって来たの」ヤガミヒメはため息をついた。「あたしが選んだのは、この二人じゃなかった」
「十人もいれば、そりゃもうちょっとはましなのもいたでしょうさ。でもまさか、今ごろになって、その腹いせに?」
「どうなんでしょう。聞いてみないとわからない」ヤガミヒメはしばり上げられて一同の前にころがされている、たくましい男をちらと見た。
男は陰気に目を伏せている。アマツヒコネは殺した男の死体の上に気楽な顔で腰を下ろして、金色に染めた長い髪を編み直している。クマノクスビは、手に豆ができたと唇をとがらせているイクツヒコネの肩を抱いて、小声でなだめてやっている。
「あなたはたしかフテミミよね」うつむいたままの男にヤガミヒメは声をかけた。「私の命をねらわなくてはならないような、どんな事態が起こったの?」
男は答えなかった。
「亡くなった、そちらの人はフハノね」ヤガミヒメは続けた。
「私がオオナムチを選んだとき、とても悲しそうな顔をしていたから覚えている。皆とちがって一人だけ、笑わなかった。どうしたの? 二人ともお兄さまたちに仕えて、幸せに過ごしていたのではなかったの? オオナムチを殺したあとで。あたしの心も殺したあとで」
男は突然、顔を上げた。血走った、暗い目で彼はヤガミヒメを見つめた。
「オオナムチなどいなかった」彼はしゃがれた声で言った。「誰も彼を殺してなどいない」
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「何ですって?」ヤガミヒメが呆然とした。「一番下の弟でしょ。あなたたち十人兄弟の」
「私どもは九人兄弟だ」フテミミはかたくなに言った。
「あたしに求婚しに来たときは十人だったと思うけど」ヤガミヒメが最近ではまったく見せたことのない冷たい笑いを浮かべて、鋭い声で皮肉っぽく言い返した。「ちがうかな?」
「あんたに求婚しになんか行ってない」
「ええ?」
「あんたはこの世にいなかった」
「おいおい」今度はクマノクスビがイクツヒコネを押しやって、向き直った。「おっさん、あんた、何言ってる?」
「この世にいない相手を、刀持って殺しに来んのかよ?」突き放されたイクツヒコネも、それにさえ気づかなかったように目を丸くしている。「ややくるしいことするやつだなあ」
「だいたいあんた、どっから来たんだ?」アマツヒコネが立ち上がった。「仕えてんのは誰なんだ?」
「フヌヅヌさまだ。草原で最大の都の王だ」
「へ? 大きな町だが、都ってほどじゃ」アマツヒコネは鼻を鳴らした。「第一、そこはすぐ隣に同じくらいでかい町があるじゃねえか。たしか、フヌヅヌの弟の、ええと誰だっけ、そら」
「オミヅヌ」イクツヒコネがすぐ答えた。「そんで、兄弟のくせして一触即発いつ戦いが起こってもおかしくないほど、はりあってんだろ、二つの町は」
フテミミは、かっとしたように、しばられたままの身体を起こした。
「オミヅヌはフヌヅヌさまの町から追い出されて、あることないことふれ回って広めながら、自分の町を作っただけだ。嘘で固めて築かれた、いつわりの町だ」
「話はともかく」オオゲツヒメがヤガミヒメの肩に手をかけた。「この人たちが殺したという末の弟って、あなたの夫だった人よね?」
「ええ。今はオオクニヌシと名のって、ナカツクニの村にいるわ」
「すぐそこに知らせを送らないとだめ」オオゲツヒメは言った。「あなたと同じにその人も、いなかったことにしようとしてるのなら、そこにもきっとここと同じか、それ以上の誰かが彼を殺しに行ってるわ」
「いやだ!」ヤガミヒメは、すくみ上がって青ざめた。「すぐに使いを送らなきゃ!」
「おれたちが行く」イクツヒコネが勢い込んだ。「馬がいるんだろ? こいつらの手下が乗ってきた」
「あわわ、そりゃいますけども」村長がどもった。「あの、しかし、皆さん、祭りまで戻って来れるんでしょうか?」
「うーん、そりゃどうかわからんなあ」クマノクスビが腕組みをする。「あっちでけっこう長引く戦いになっちまうかもしれないし」
「皆さん行ってしまわれる? それじゃ祭りがめちゃくちゃですがな」
「イクツヒコネを残しとけば?」アマツヒコネが提案した。「こいつ一人で何とかやれるよ」
「やだ!」イクツヒコネが飛び上がって叫んだ。
「いいの。馬は得意よ」ヤガミヒメがさえぎった。「あたしが行くから」
「ですけど、あの、お二人の踊りも皆が楽しみに」
「そのくらいはがまんして」ヤガミヒメは村長の胸を両手で優しく押した。「できるだけ早く帰ってくるし。ね?」
「そんなら早くご出発を」村長はそそくさ立ち上がった。「馬んとこへご案内します。途中の食事も作らせますで」
皆がどやどやと立ち上がる。そんな中でフテミミはしばられたまま、もう何ごとも関心がないかのように、うつろな目をきらめく湖面にただよわせていた。(つづく)