水の王子・「岬まで」15
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ひずめの音が遠ざかる。
おれの空耳かもしれないが。
遠くで太鼓の音がする。
不思議な花の香りが水の匂いとまじってただよってくる。
おれが閉じ込められている、この建物は、うす紅色の格子がはまっていて、その向こうには沼が見える。淡い光にきらめいて、白っぽいもやが水草の上にただよっている。
村では祭りがはじまるらしい。
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長い夢を見ていたような気がする。
フハノ。おまえはもういないのか。
若者たちと女たちは、彼の死骸をかついで行った。
沼のほとりに埋めると聞いた。
フハノ。長いこといっしょにいたのに、おまえのことをおれはよく知らない。
これという思い出はない。
顔さえももう忘れそうになる。
おまえは、めだたない男だった。
どちらかと言えば、おれもそうだった。
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時の流れが遅かった。
むしろ、止まってしまっていた。
ずっと昔の、いつからか。
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ごとごとと音がして、おれを殺しかけた若い男が入って来る。
紫色の髪をもしゃもしゃのばした大柄な男だ。
目鼻立ちは整っているが、のんきそうで、人がよさそうに見える。
「太鼓のばちが一本足りねえ」彼は無邪気な口調で言う。「そのへんにないか、おっさん」
おれもつられてあたりを見回す。彼はごそごそへやのすみをかき回して、「あったあった」とうれしそうにはしゃぐ。そのままどっかり腰を下ろして、あぐらをかいて片手を後ろについて、くつろぐ。
遠い音楽は今はやんでいる。
「ふう、ちっとは休まねえとな」男は言って、あくびをする。「今夜は夜通し、村じゃ踊りの練習だろさ。何でもう、あんなに難しい振り付けなんか考えやがるかなあ。ばあさんたちも、じいさんたちも」
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おれは黙っている。うらやましいとぼんやり思う。何も考えていないようでも、この男の頭の中は、ぽっかり澄んだ青空だ。おれやフハノのように曇ったり、よどんだりしていない。
時は風のように勢いよく、この男の頭の中を吹き抜けて行くのだろう。
「おっさん、ほんとに、あの女たちを殺したかったのか」くったくのない口調で彼は聞く。
「そうだ」と答えている自分に驚く。「命令だったし」
「へえ。死んだあの男も?」
「ああ」
「悪かったな」男はあっさり謝った。「アマツヒコネはちっこくて、かわいい顔をしてるんだが、気が短くて手が早えのさ」
「そのようだ」
「おれらが抑えておかねえと、あいつの音はいつも突っ走りやがるのよ」
「君たちは兄弟なのか?」
「そうじゃねえけど、まあそんなもんだな」
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男は手にした太鼓のばちを、放り上げては受け止める。長い、しなやかそうな指先だ。「おっさん、音楽やらねえの?」と彼は突然聞いて来る。
「昔は笛を吹いたものだ」
「たて琴は?」
「死んだフハノがやってたな」
「おっさんたち、兄弟なんだって?」
「ああ」
「十人だっけ。ああ、九人?」
頭が痛くなって来た。たちこめていた霧が晴れてくるように、光が私の目の奥を刺す。「十人目の弟は」と自分が言っているのを聞く。「狩りのときの事故で死んだ」
「ふうん」
「まだ、ほんの子どものとき」
「それで九人か」
「そういうことだ」
フヌヅヌ。オミヅヌ。フカブチ。ヤシマ。ウカノ。フハノ。ツドヘ。オオトシ。そして私とオオナムチ。
「母が」と私はつけ加える。「母がそいつを、よみがえらせた」
「その弟を」
「だがそれはそう見えただけだ。そいつは元のそいつじゃなかった」
「どういうこったい?」
「見た目は同じだが、化け物だった。だから皆でそいつを殺した」
男は指を額にあてて考えこんでいる。だが目は私を見つめている。素直で明るい、まっすぐな目。どこか似ている、あの男に。
「しかしまた、よみがえった。女を愛して、子をなして、村を作って長になっている。そういう噂が広まった。放っておけば、噂は本物になる。噂の元は消さなければならない」
「あんたの話は何が何だか、おれにはどうもよくわからん」男は横にしたばちを握って、困ったように顔をしかめる。
「だろうな」私は目を閉じる。「私にもだ」
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時は、いつからとまったのだろう?
夢のはじまりは、いつだろう?(つづく)