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水の王子・「岬まで」15

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 ひずめの音が遠ざかる。
 おれの空耳かもしれないが。
 遠くで太鼓の音がする。
 不思議な花の香りが水の匂いとまじってただよってくる。
 おれが閉じ込められている、この建物は、うす紅色の格子がはまっていて、その向こうには沼が見える。淡い光にきらめいて、白っぽいもやが水草の上にただよっている。
 村では祭りがはじまるらしい。
     ※
 長い夢を見ていたような気がする。
 フハノ。おまえはもういないのか。
 若者たちと女たちは、彼の死骸をかついで行った。
 沼のほとりに埋めると聞いた。
 フハノ。長いこといっしょにいたのに、おまえのことをおれはよく知らない。
 これという思い出はない。
 顔さえももう忘れそうになる。
 おまえは、めだたない男だった。
 どちらかと言えば、おれもそうだった。
     ※
 時の流れが遅かった。
 むしろ、止まってしまっていた。
 ずっと昔の、いつからか。
     ※
 ごとごとと音がして、おれを殺しかけた若い男が入って来る。
 紫色の髪をもしゃもしゃのばした大柄な男だ。
 目鼻立ちは整っているが、のんきそうで、人がよさそうに見える。
 「太鼓のばちが一本足りねえ」彼は無邪気な口調で言う。「そのへんにないか、おっさん」
 おれもつられてあたりを見回す。彼はごそごそへやのすみをかき回して、「あったあった」とうれしそうにはしゃぐ。そのままどっかり腰を下ろして、あぐらをかいて片手を後ろについて、くつろぐ。
 遠い音楽は今はやんでいる。
「ふう、ちっとは休まねえとな」男は言って、あくびをする。「今夜は夜通し、村じゃ踊りの練習だろさ。何でもう、あんなに難しい振り付けなんか考えやがるかなあ。ばあさんたちも、じいさんたちも」
     ※
 おれは黙っている。うらやましいとぼんやり思う。何も考えていないようでも、この男の頭の中は、ぽっかり澄んだ青空だ。おれやフハノのように曇ったり、よどんだりしていない。
 時は風のように勢いよく、この男の頭の中を吹き抜けて行くのだろう。
 「おっさん、ほんとに、あの女たちを殺したかったのか」くったくのない口調で彼は聞く。
 「そうだ」と答えている自分に驚く。「命令だったし」
 「へえ。死んだあの男も?」
 「ああ」
 「悪かったな」男はあっさり謝った。「アマツヒコネはちっこくて、かわいい顔をしてるんだが、気が短くて手が早えのさ」
 「そのようだ」
 「おれらが抑えておかねえと、あいつの音はいつも突っ走りやがるのよ」
 「君たちは兄弟なのか?」
 「そうじゃねえけど、まあそんなもんだな」
     ※
 男は手にした太鼓のばちを、放り上げては受け止める。長い、しなやかそうな指先だ。「おっさん、音楽やらねえの?」と彼は突然聞いて来る。
 「昔は笛を吹いたものだ」
 「たて琴は?」
 「死んだフハノがやってたな」
 「おっさんたち、兄弟なんだって?」
 「ああ」
 「十人だっけ。ああ、九人?」
 頭が痛くなって来た。たちこめていた霧が晴れてくるように、光が私の目の奥を刺す。「十人目の弟は」と自分が言っているのを聞く。「狩りのときの事故で死んだ」
 「ふうん」
 「まだ、ほんの子どものとき」
 「それで九人か」
 「そういうことだ」
 フヌヅヌ。オミヅヌ。フカブチ。ヤシマ。ウカノ。フハノ。ツドヘ。オオトシ。そして私とオオナムチ。
 「母が」と私はつけ加える。「母がそいつを、よみがえらせた」
 「その弟を」
 「だがそれはそう見えただけだ。そいつは元のそいつじゃなかった」
 「どういうこったい?」
 「見た目は同じだが、化け物だった。だから皆でそいつを殺した」
 男は指を額にあてて考えこんでいる。だが目は私を見つめている。素直で明るい、まっすぐな目。どこか似ている、あの男に。
 「しかしまた、よみがえった。女を愛して、子をなして、村を作って長になっている。そういう噂が広まった。放っておけば、噂は本物になる。噂の元は消さなければならない」
 「あんたの話は何が何だか、おれにはどうもよくわからん」男は横にしたばちを握って、困ったように顔をしかめる。
 「だろうな」私は目を閉じる。「私にもだ」
     ※
 時は、いつからとまったのだろう?
 夢のはじまりは、いつだろう?(つづく)

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カツジ猫