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水の王子・「岬まで」2

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 「ヤシマさん、もっと食べなさいよ」ナキサワメは涙をぬぐいながら言った。「あんなに働いて、屋根も直して下さったのに、それじゃ身体がもちますまい」
 「森で、鳥やけものを狩って、食べておりますから」ヤシマはひざに手をおいて、少しかしこまって答えた。
 やわらかな、人なつこげな表情の男である。陽焼けしたほおに、黒い髪がたれかかり、彫りの深い目鼻立ちと口の回りのしわが、考えぶかげな一方で、どこかゆううつそうだった。高く低くひびくオオヤマツミのいびきを気にしたか、ちらとそちらに目をやって、「まだ起きなさらんですか」と、おだやかに聞いた。
 「どうかしたら一年ぐらい平気で寝てますからあなた」ナキサワメはため息をついて、灰色の髪をかきあげた。
 「その間、お一人というのも手もちぶさたですな」
 「もう慣れちまいましたから。おかわりは?」
 ヤシマの返事も待たずに、ナキサワメは彼の前の茶わんに、肉と野菜入りのかゆをついだ。
 「これはかたじけない」ヤシマは頭を下げて箸をとる。
 「お口にあわんでしょうけど」ナキサワメは言った。
 「私には過ぎたごちそうです」
 「ご立派な暮らしをされていたのでしょうに。何となくわかりますですよ」
 ヤシマは片手でひざをさすった。「昔のことです。何から何までいつわりの暮らしでした」
 「ご家族もいらっしゃったのですか?」
 「妻がいました。私の帰りを今も待っているでしょうな」
 「そりゃ、お帰りなさらんと」ナキサワメは鼻をすすった。「それか、こちらにお連れなさるか」
 ヤシマは淋しそうに首をふった。「なかなかそれが、いろいろ、むずかしくてですな」彼は食べおえて、箸をおき、手を合わせた。「さてと、入り口の階段を直しておくとしましょうか」
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 「あれが、その男?」木かげからのぞきながら、ヒルコがハヤオにささやいた。
 「うん。階段を作り直してる」
 「だけど、手ぎわはあんまりよくない」ヒルコは髪をかきあげて、ちょっとしかつめらしく批評した。「あんな仕事に慣れてるようには見えないよ」
 「強そうだけどな。腕も太いし」
 「でも、下働きの男っていうより、武人って感じ」
 「ナキサワメが酒を持って来たよ。ひと休みするのかな」
 「ハヤオ、行っておいでよ」ヒルコが背中を押した。「こんなところでのぞいてるって言うのも変だよ」
 「おまえも来ないか?」
 「遠慮しとく。そう一ぺんにいろいろ現われちゃ、ナキサワメだってあわてちゃうだろ」
 「おまえはどこにいる?」
 「小屋に戻るか、そのへんにいるよ」
 「まちがってあの男に射られないようにしろよ。あんまりそのへん、ちょろちょろして」
 ヒルコは声を出さずに笑い、ハヤオの耳をふざけて軽くひっぱると、そのまますっと草の中に消えた。
 ハヤオは立ち上がり、木のかげから歩み出した。「ナキサワメ!」
 「あれま、ハヤオかい」ナキサワメはほろほろ涙をこぼして、ぬぐった。「おいでよ、ヤシマさんとはまだ会ってないだろ?」
 「森の中ではときどき見かけたけど」ハヤオは歩みよりながら、肩にかけていた弓矢を背中に回した。
 ヤシマは立ち上がり、つつましく頭を下げた。「お世話になっとります」
 「こっちこそ。いろいろ助けてもらってるみたいで」ハヤオは頭を下げた。
 近くで見ると、ヤシマはしなやかな手足の、どこか野生のけもののような、そのくせ荒々しさというより、ものうさと悲しさを感じさせる男だった。どことなく、影が薄い。若々しさもないが、年相応のしたたかさもない。変なやつ、とハヤオは思ったが、危険はまったくなさそうだったから、とりあえず、ナキサワメに「おれも手伝うよ」と言った。「て言うか、もともとおれの仕事だよな」
 「まあ、その前にひと休みしておいで」ナキサワメは言った。「棚の上に食べ物があるからさ」
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 よくよく、まめな性格なのか、それとも気づかいするたちなのか、ヤシマはいつの間にか、ハヤオが寝るのにちょうどいい、小さい寝台を作ってくれていた。そして自分はナキサワメがすすめるのも断って、入り口近くのすみっこに、毛皮をまきつけて、うずくまるようにして寝るのだった。
 「ヤシマって、遠慮深いんだね」ハヤオはいつもの床の上のふとんに寝ているナキサワメに、寝台の上からささやいた。
 「まあ、そうだねえ。いつもそうさ」ナキサワメは枕の上で涙を流しながら、やっぱりひそひそ声で答えた。「その寝台の寝心地はどうだい?」
 「抜群だよ。おれの身体にぴったりだもん」
 「おまえはめったに帰って来ないんだし、大きめに作っといてくれたら、あたしも使えるからって言ったんだけどさ。やっぱりおまえ用のを作るって聞かなかったんだよ、あの人」
 「故郷に子どもがいるのかな。どこから来たか話したのかい?」
 「それはちっとも言わないんだよ。まあ、そんなこと言うなら、あたしだってそうだけどね」
 「そうだけどって何が?」
 「どこから来たのかわからないってことさ」ナキサワメは涙をぬぐった。「気がついたら、いつからか、この森にいたんだよ」
 「オオヤマツミも?」
 「そのころはまだわりと起きてることも多かったけどね」
 そう言えばこんな話は昔から一度もしたことがないなとハヤオは思った。
 「昔のことすぎて忘れたとか、そんなんじゃなくて?」
 「そんなんじゃないさ。気がついたら、ここにこうしていたんだよ」
 「ふうん」
 「そんなもんだよ、世の中ってのは」
 そうじゃないような気もしたが、ハヤオにもよくわからなかった。そして、それもこれまで一度も気にしなかったし、聞いたこともないことを彼は聞いた。
 「じゃおれは?」
 「あ?」
 「おれはいつ、どこから来たの? あんたが生んだんじゃないよね?」
 「ちがうよ」ナキサワメは答えた。「昔はときどき、あたしたちも森を出て、山や、海のある方に行ったりしたんだよ。川をさかのぼって、二人でさ」
 「へーえ」
 ちょっと想像がつかなかった。
 「そしたら、原っぱに小さい家があってね。そこに住んでた女の人が、おまえを私にくれたんだよ」
 「おれは赤ん坊だったのかい?」
 「もうちょっと大きかった。ごはんを食べたし、何だかいろいろしゃべってたっけ」
 「その人がおれの母親?」
 「よくわからないが、ちがうみたいだったよ。けっこう年がいってたし」
 「そこに行けば、まだいるかな?」
 「どうだろねえ」ナキサワメはもう眠そうだった。
 「川をさかのぼって行けばいいんだな?」
 「そうそう。森のとぎれるあたり」
 それじゃ相当遠くじゃないかとハヤオは思った。多分、草原と反対の方向だし、そっちにはこれまで足をのばしたことはない。
 「そりゃそうと、ヒルコは一人で寝てるのかい?」
 「多分ね」ハヤオは笑った。「何だよ、気になる?」
 「気になるっていうんじゃないが、ヤシマさんにこの前その話をしたら、そんな小さい子が一人でいたら淋しいでしょうなあって、変にしみじみしてたからさ。それからあたしも気になっちゃって」
 「やっぱり子どもがいるんじゃないかな。おれたちぐらいの」
 だがナキサワメの返事はなくて、どうやら眠ってしまったらしかった。(つづく)

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カツジ猫