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水の王子・「岬まで」3

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 次の日の朝、ハヤオが起きたときには、もうヤシマは外に出て、川からくんで来た手おけの水を、台所の樽の中に入れていた。オオヤマツミはあいかわらず眠りこけており、ナキサワメは床をみがいて掃除をしていた。
 「何か食べるかい?」彼女はハヤオを見て、涙を流しながら聞いた。
 「いや、いいよ。おれ、ヒルコのとこに行ってくる」
 「食べ物を持って行くかい?」
 「うん」
 ハヤオは棚から、少し固くなったまんじゅうをいくつかとって、そのまま小屋を出た。
 いい天気だった。川は光をはねかえして輝きながら流れている。川の中の石をとびこえて、さかのぼって行くと、ヒルコが岩の上に座って木の実をかじっていた。
 まんじゅうと木の実をわけあって食べながら、ハヤオはゆうべのナキサワメとの話をした。
 「その女の人のとこに行ってみる?」ヒルコが聞いた。
 「そうだな。まあ当分どこに行くってあてはないしな」
 ハヤオはその女が自分の母親だとは思ってなかった。かつてナカツクニの村で、タカマガハラの戦士アメノウズメの鏡の光をあてられて、生まれたときと殺されたときのことを体験させられたのだが、そのとき味わった死の恐怖と苦痛にいやまして、ハヤオは自分をこの世に生み出してくれた女のあたたかく優しい声を覚えて、力づけられていた。私を切り裂き、出て行きなさい。そうはげました息もたえだえの澄んだ声の持ち主の顔も多分、知っている。ヒルコの小屋で見つけた薄衣に描かれた女の顔。ナキサワメとオオヤマツミが燃やしてしまったが、あの声と同様にその顔もハヤオの心に深く刻みつけられて消えることなく、いつも彼をどこかで暖め、力づけつづけていた。
 あれは母。多分、ヨモツクニのイザナミ。そして自分をずたずたに切り殺したのは多分、父のイザナギ。
 そうやって殺された自分をよみがえらせてくれたのが、ナキサワメの言ったその女なら、会ってみるのも悪くない。
 「おまえさ」ハヤオはヒルコに話しかけた。
 「うん?」
 「生まれてすぐ、海に流されたんだよな。ぐにゃぐにゃのぶよぶよで、育たないって言われて」
 ヒルコは笑った。「うん」
 「イザナギとイザナミから?」
 「うん。多分ね」
 「それで、いつどうして、今みたいになったんだよ?」
 ヒルコは声をあげて笑った。「知りたい?」
 「知りたい」
 「覚えてないんだ」
 「おまえなあ」
 「ほんとに、気がついたら、もうこうだった」
 色白のすきとおるような、みずみずしい肌。すんなりと伸びたしなやかな手足。少女のように優しい顔立ちの中の、そこはかとない厳しさと冷たさ。さらさら長くつややかな茶色がかった髪。見慣れすぎたその姿をハヤオはあらためて見直した。
 「ハヤオだって」ヒルコはちょっと悪いと思ったのか、聞き返して来た。「自分のこと覚えてないんだろ。イザナギにばらばらにされてから、いつまたそんなにちゃんと、かわいい男の子になったのか」
 「ふざけんな」ハヤオはヒルコを軽くつきとばした。「おれが覚えてるのは、もうこの森であの二人と暮らしてた時からだ。おまえは?」
 ヒルコはちょっとまじめになって、首をかしげて川を見た。
 「僕は多分、あちこち旅したんだよ」考え考え彼は言った。「どれが先で、何があとだったのか覚えてないぐらい、いろんな人と会って、また別れて。クエビコとか、オオゲツヒメとか。でも、ヨモツクニのツクヨミが来たり、タカマガハラのアメノウズメが来たりシて、結局長居はできなかった。誰のところにもね」
 二人はまたしばらく黙って川を見ていた。
 「あ、ヤシマだ」ハヤオが言った。
 川下の方から水の中を歩いてきたヤシマが、岩の間にしかけたわなを調べては、とれた魚を腰の袋に入れている。
 「ヤシマ!」ハヤオは声をかけた。
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 ヤシマは額に手をかざしながら、目を細めてこちらを見た。
 「おれたち、また旅に出るから」ハヤオは川のせせらぐ音にかき消されないよう、声をはり上げた。「ナキサワメにそう言っといてくれる?」
 ヤシマはうなずいた。「気をつけて」
 「ああ。君はまだ当分いてくれる?」
 ヤシマはうなずいた。「多分」
 「奥さん、つれて来ないのか?」
 ヤシマは苦笑して顔の前で片手をふった。そして、肩にかけた袋の中から、干し肉の包みを出して、こちらに歩いて来ながら、それを二人にさし出した。「持って行ったら。たくさんあるから」
 「ありがとう」ハヤオは水べまで走って行って、それを受け取った。「また来るからって、ナキサワメには言っといて」
     ※
 「そう言っといて何年も帰りゃしないんですよ」その夜、かまどに燃える火の前でナキサワメはヤシマにこぼして、涙をぬぐった。
 ヤシマは困ったように笑った。
 「ヤシマさんの奥さんって、どんな人?」ナキサワメは尋ねた。
 「立派な家の、立派な娘。私には過ぎた女です」
 「だけど、おたがい好きなんでしょう?」
 「よくわからんですね。あれは、私のことをよく知らないだろうし」
 「ありゃりゃ。そりゃまた何で?」
 「私は一応、評判もいいし、人気もあったし、家族の自慢の種でしたし」
 ヤシマはとことん、うかぬ顔で言ったので、いっこう自慢に聞こえなかった。ナキサワメはまた「ありゃまあ」と言った。
 「実際はそうでもないんですがね」ヤシマはつぶやいた。「全然、そうじゃないんですが」
 「嘘をついていなさったってこと?」
 「ずっとそうだったから、それはあきらめてたし、しかたがなかったんですが、結婚したら妻にだけは、ちゃんと自分を見せておきたくなってきて」
 「見せなさったらいいのに」
 「ところがあそうすると、妻にだけは、それを見せたくなくなって」ヤシマは首をふった。「まあ、うまく行かんもんですな」(つづく)

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