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水の王子・「岬まで」22


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 「もういいんだよ、ウガヤ」数人の子どもたちと連れ立ってついて来ていたミヅハがそう言ってウガヤをとめ、ウガヤは「もういいもういいもういい」と小声でくり返しながら羽をたたんで畑の柵の横木にとまった。
 「そいつかい?」アメノウズメがあごをしゃくる。
 「一人暮らしで目も不自由だったんで、今朝からヌナカワヒメの病院に避難していて、さがすのに手間取りました」コトシロヌシが言いながら、オオクニヌシの前、人々の輪の中に、連れて来た男の肩を押して、座らせた。
 尾羽うち枯らした、という表現が似合いそうな、いかにもうらぶれた中年男である。髪も汚れ、服はすり切れ、動きものろのろと心もとない。
 生き残ったマガツミたちがぶるぶる小さく動いたが、それ以上の反応は特になかった。例の大きな巻き物になったマガツミは、むしろタカヒコネの足にぴったりよりそって熱っぽい目で彼を見上げたようだった。
 「反応してるね」タカヒコネがいやそうな顔をしているのには目もくれず、アメノサグメがその動きを見てつぶやいた。「あやつってたのはこいつでまちがいなさそうだが、誰なの、いったい?」
 「かなり以前から村に住み着いていた男です」コトシロヌシが淡々と説明した。「ミヅハが隣の男の畑から野菜を盗んでいる住人がいると知らせてくれたことがありまして」
 「それがこの男なの?」
 「いや」コトシロヌシは首をふった。「盗まれていた方の男です、こいつは。タカヒコネと二人で、隣りが作物を盗んでると知らせてやりに行ったんですが、知っているけど気の毒だから見逃してるんだと言いました。相手は足と目が悪いし、自分も目がよくないから、つい同情したくなるんだとか。奇特な人とは思いましたが、それよりどこか、とにかくことを荒立てたくない、目立ちたくないと思っている様子なのが気になって。こっちこそ何か後ろ暗いところがあるんじゃないかと、ずっと気にしていたんです」
 「あいつか」ニニギとタカヒコネが顔を見合わせる。
 「それにしたって何者なんだ?」村人の一人が声を上げた。「見たことがあるような気がするが、さっぱり覚えてないぞ、こんなやつ」
 「ちょくちょく見かけちゃいたけれど、どうってことなさそうな男だったしねえ」
 「とっくに村を出たのかと思ってた。このごろさっぱり会わなかったし」
 「夜も家には灯りがついてなかったからな」
 オオクニヌシがためらいながら人々をわけて進み出た。男のすぐ前に彼はひざまずき、やつれきったその顔をのぞきこんだ。
 「ツドヘ」彼は低く呼びかけた。「兄上。あなたなのですか?」
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 男は目を上げ、声のした方をさがすように顔を動かした。「オオナムチ」案外しっかりした声と口調だった。「いや、今はオオクニヌシか。この村の長の」
 「別に私は長などではないよ」オオクニヌシはおだやかに言った。「いったいどうして、もっと早く名のって、会いに来てくれなかったんだ?」
 「この村を滅ぼして、おまえを殺せと命令されていたのにか?」
 人々の沈黙の中でオオクニヌシの声は変わらずおだやかだった。
 「このごろなぜか、ずっとあなたたちのことを思い出していた。どこかで会えそうな気がしていた。故郷を出てから初めてだったよ、そんな気持ちになったのは」彼は片手をのばし、男の汚れた袖の上においた。「皆、どうしているんだね?」
 「フヌヅヌとオミヅヌが父上のあとを継いで町を治めている。二人は争い、隣同士に別々に町を作った。ウカノはオミヅヌに、他の者はフヌヅヌに仕えている。オオトシとフカブチとヤシマとは町を出て行方が知れない」
 「つまり、フカノとフテミミとあなたは、フヌヅヌに仕えているのか」
 「同じようにではないが」
 「と言うと?」
 「オオナムチ」男は声をわずかに上ずらせた。「おまえのせいだ」
 「どういうことだね?」
 「私が、私たち兄弟がこうなったのは」ツドヘという男は、うつろな調子で続けた。「すべて、おまえのせいだというのだ」
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 「父上」コトシロヌシが言った。「場所を変えましょう」
 だが、オオクニヌシは首をふった。「ここで、皆の前で聞く」きっぱりと彼は言った。「ツドヘ。どういうことなのだ?」
 「兄弟十人の中で、幼い時からおまえは一番賢かった。心も姿も立派だった」ほとばしるように、ことばはツドヘのささくれた唇から流れた。「フヌヅヌもオミヅヌも年は最年長でも王の器ではなかった。どこからどこまで平凡な、ありふれた男たち。末の弟で、まだ子どもでも、おまえはちがった。おまえが父上のあとを継ぐべきだったのだ。おれはいつも、そう言っていた。賛成する者も多かった」
 「そう言えばそうだったな」オオクニヌシはつぶやいた。「冗談だと思っていたよ」
 「おまえは逃げた。私たちの望みを無視した。本来の力がある者がそれを受けとらないと、恐ろしいことが起こるとおまえは知らなかったのだろうか? いつもおまえはそうやって、自分の役割から逃げる。そうやって人を苦しめ、普通の者を悪者にしてしまう。フヌヅヌとオミヅヌは、おまえを恐れ、警戒し、とうとう他の者を味方につけて、おまえを殺した。よみがえったおまえは姿を消し、最後までおまえを守ろうとした私を、フヌヅヌもオミヅヌも、決して許さなかった」
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 「なぜ王宮を出なかったのだ?」乾いた声でオオクニヌシが尋ねた。
 「おまえが帰って来ると思ったから」ツドヘは声をしぼり出した。「いつかおまえが戻って来て、正しい王になってくれるかもしれないという望みを捨てきれなかった。だが私のそんな気持ちは見抜かれていたし、そんな私を皆は憎んだ。私は常に危険な仕事につかされ、わずかな失敗をとがめられ、牢獄のようなへやに押しこめられた。熱病にかかって薬ももらえず、やがて目もよく見えなくなった。それでもまだ、私は恐れられていた。フヌヅヌたちは、おまえを皆で殺したことを、かくし通していた。忘れようとしていた。父上や、タカマガハラに知られたらどうなるかを何よりも心配していた。そのことを私が口にしたらおしまいだと彼らはおびえつづけていた。実際、私は折にふれて、その噂を流しつづけていたからな。できれば私のことも殺してしまいたかったのだろうが」
 「待て。オミヅヌはたしか、その噂は正しいと言って、大っぴらに反省してみせて、別の町を作ったんじゃなかったか」ツクヨミが口をはさんだ。「なぜおまえは、彼について行かなかったんだ?」
 「何もわかってないんだな」ツドヘは肩で息をついた。「オミヅヌは弟を殺したのはフヌヅヌで、自分は反対したと言って、あの町を新しく作ったんだ。どっちの言い分が正しいかタカマガハラはろくに調べもしなかった。きっと、どうでもよかったんだろ。私はオミヅヌは昔から嫌いだった。オオクニヌシ、あんたを殺そうとするいたずらを最初に言い出したのはオミヅヌとウカノだ。最初は本気じゃなかったかもしれないが、そういうことの好きなやつらだったからな。とにかく、それで二つの町は対立し、おれの立場はますます悪くなった」
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 「あなたの目は」オオクニヌシは、つとめて冷静に聞いた。「もうまったく見えないのか?」
 「ぼんやりと、影と光がわかるぐらいさ」ツドヘは苦々しげに笑った。「覚えているか、オオナムチ。兄弟の中で誰よりも、おれは美しいものを見るのが好きだった。館の庭の風景も、母上の持っていた宝石も、人間たちも、動物も。そのおれが、ものの色さえ、もうわからない。ヤノハハキの絵巻物をおれはどれだけ見たいと思っていたことか。しかし彼女がヤシマの妻になって王宮に来たとき、おれはもう、それを見ることができなかった」
 彼は目を閉じ、深々と息をついた。
 「ヤシマ夫婦は優しかった。おれに織り物を手でさわらせてくれ、描かれているものを説明してくれた。それがおれを苦しめたのか幸せにしたのか、おれは今でもわからない。あまり話はしなかったが、ヤシマはいつもおれのことはかばってくれたし親切だった。だがいつからか、彼も王宮からいなくなった。ヨモツクニとの戦いがなくなってからは、タカマガハラもあまり訪れなくなって、町はさびれる一方だった。人も減り、いつからかフヌヅヌもオミヅヌも、兵士や働き手をマガツミたちで補うようになったんだ」
 「いったいどこからどうやって彼らを調達しているんだ?」
 「よく知らない。彼らはけっこうあちこちにいる。狩り集めて、売り買いする者も多いと聞いている。薄めて、広げて、切り刻んで、いくらでも数を増やす方法を知ってる者も多いらしい。その気になればとめどなく増やせるし、かなり簡単にあやつれもする。一言命令をしておけば、かなりの間は、それに従う」
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 「この村と私のことはいつ知った?」
 「この村のことは知っていた。しかしおまえが…オオクニヌシがオオナムチだということは数年前まで知らなかったんだ」ツドヘは言った。「どこからかどうしてかそのことを知ったとき、フヌヅヌとオミヅヌは相談して、とりあえずおまえをいなかったものにすることを決めたらしい」
 「よりによって、あなたをここに差し向けたのか。私があなたと協力して町をほろぼすとは思わなかったのか」
 「オオナムチ」ツドヘは激しい声でうめいた。「だからおまえは愚かなのだ。おまえの息子や友人たちに、聞いてみろ。そんなことが今さら私にできるかどうか。おまえを殺した兄弟たちと長くいっしょに暮らした私が、何をおまえに許しをこうのだ。何を告白して協力をたのむのだ。おまえが、それにおいそれと乗ると、今さら私を信用すると、私に期待ができると思うか。私はもう、あの町にしか居場所はない。憎まれて、うとまれて、目も見えなくて、それでも、それだからこそ、私はあそこにおいてもらうしかないのだ。それがわかっていて、私はここにさしむけられた。私にそれを思い知らせる、最大のしうちで罰なのさ、これは」
 「ばかばかしい」オオクニヌシは本気であきれかえっていた。
 「昔も今も、幸せなやつだ」ツドヘは笑った。「とにかくそれで、おまえとヤガミヒメのところに私たちがさしむけられた」
 「ヤガミヒメだと?!」
 「大丈夫です。ご報告が遅れました」コトシロヌシがわびた。「先ほどヤガミヒメ自身が馬でかけつけて来ました。今はヌナカワヒメのところにいます」
 「沼にも攻撃があったのか?」
 「あちらは少数で、村人たちがくいとめたようです。フテミミという男を捕らえ、フハノという男は殺したとか」
 オオクニヌシもツドヘも黙ったままだった。
 白っぽくのどかな午後の光が一同の上にふり注いでいる。波の音が穏やかにひびき続け、ウガヤが羽繕いをする、ばさばさという音までが高く聞こえた。
 やがてオオクニヌシがゆっくりと顔を上げて、コトシロヌシを見た。
 「あとはまかせる。皆をたのむ」彼は言った。「村はもう大丈夫だろう。当分はな。いずれまたフヌヅヌたちが何かしかけて来るかもしれぬが」
 「マガツミとの戦い方を訓練しておく必要があるね」アメノサグメが腕組みをして肩をゆすった。
 「わしも少々その方面の研究をしておかなければなるまいのう」スクナビコも口をすぼめて、はげ頭を平手でなでた。
 「この男をどうします?」コトシロヌシがツドヘを見下ろす。
 オオクニヌシは両手をのばして、やせこけた兄の肩においた。
 「私の家に来て下さい」心をこめて彼は言った。「さしあたりそれからどうするか、家族皆で考えましょう」(つづく)

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