1. TOP
  2. 岬のたき火
  3. ミーハー精神
  4. 水の王子・「岬まで」24

水の王子・「岬まで」24

     ※
 何かもう、そのことを予測していたように、コトシロヌシがうなずいた。
 タカヒコネも静かな表情のままだった。
 驚いたのはニニギだけで、「どちらにですか?」とせきこんで聞く。
 「フヌヅヌとオミヅヌの町だ」オオクニヌシはあっさり言った。「まだ残っている兄弟すべてと会ってくる」
 「誰を連れていくのです?」
 「一人で行く。村の者にもタカマガハラにも話さずにな」
 ニニギも今度は答えない。三人の若者は黙って考えこんでいた。
 「君たちにもわかっているだろう」オオクニヌシは海の方を見た。「このままではこの村も、ヤガミヒメの沼も、遠からずまた襲われる。何よりもあの町は、限りなくマガツミを集めて、戦いにこき使って死なせるだけの哀れな兵士を作りつづける。そうやって力をつけて草原を支配して行くかもしれん。私が何とかしなければ。彼らと話してみなければ」
 「出発はいつです?」コトシロヌシが聞く。
 「今夜か、明日だ」
 「わかりました」コトシロヌシはうなずいた。「特に困ったことはないでしょう」
 「三人で協力してくれ」オオクニヌシは言った。「知恵と力をあわせて村を守るのだ。一人でも欠けてはいけない。…タカヒコネ、どうした?」
 「行かないで下さい」せっぱつまった声でタカヒコネが言った。「絶対に行っちゃだめです」
     ※
 「おい、いきなりどうしたんだ?」ニニギがあきれた。「さっきはあんなに落ち着いていたのに、何だよ?」
 「父さんの考えてることはうすうすわかってた。どうせそうするんだろうと思ってた」
 「ああ。だから私が村を出たら、後から追いかけるつもりだったんだろ?」オオクニヌシは笑った。「わかっていたよ。だがだめだ、タカヒコネ。君は村に残るんだ」
 「一人で行くなんて無茶ですよ。どうせ何の計画もないんでしょ? 出たとこ勝負なんでしょう?」
 「どの兄弟にも子どもの時以来初めて会うんだぞ。計画なんて立てようがない」
 「あなたはきっと殺されます」タカヒコネはくってかかった。「わかりきってるじゃないですか。それでもいいと思ってるんでしょう? 村を捨てるんですね? おれたちを捨てるんですね?」
 「どうせ君には一番手を焼くと思ってたんだ」オオクニヌシはおかしそうに言った。「もうちょっと私を信じてくれ。帰ってくるよ。約束する」
 「あなたは世の中なめてます! そんなにうまく行くわけないじゃありませんか!? お願いだからいっしょに連れて行って下さい! そうしたらせめて、あきらめがつく!」
 「もうやめろ、タカヒコネ」コトシロヌシが友人の肩に手をかけて、ひき戻しながらきびしく言った。「父が一人でやってだめなら、君がついていたって同じだ。この村にいてくれる方がずっと役に立つんだ、君は。そんなこともわからないのか?」
 へたへたとコトシロヌシにつかまって、その肩に顔を伏せてしまったタカヒコネはそれきり一言も口をきかず、翌朝の見送りにさえ現われなかった。
 「今度ばかりは重症だな」かわりにやってきて、しっぽをふっているイナヒの頭をなでながら、オオクニヌシはコトシロヌシとニニギに言った。「まあ、二人で何とかしてやってくれ」
 「おまかせ下さい、なれてます」コトシロヌシがうけあった。
     ※
 あれからもはや数ヶ月。
 年もあらたまり、雪が山野を埋めたが、オオクニヌシは帰って来ない。
 自分が毎日どうやって、胸をかむ不安と淋しさに耐えたのかタカヒコネはもう覚えていない。
 おまえがついて行っても、ひょっと身体をこわしたら、足手まといになるだけじゃないか、という一番厳しい指摘をコトシロヌシはあえて口にしなかった。自分でもわかっているだろう、と言外に言われているのも知っていた。
 だからなおのこと情けなく、どこにも気持ちのやり場がなかった。
 しいて言うなら、それも何もかもしゃくではあるが、あのじゅうたんのようなマガツミ(スセリはそろそろ、あの敷物のことをクシマトと呼び始めていた。もう亡くなったが昔、父に仕えていて、スセリのことも大事にしてくれた忠実な家来の一人の名だったそうだ)と、あいかわらず小うるさいミヅハ、それにツドヘのおかげで、かなり気がまぎれてはいた。
 スセリはツドヘに、自分とオオクニヌシが使っていた、こじんまりと居心地のいい部屋を準備した。小さい窓から湖も見え、狭いから火桶ひとつですぐ暖まる。ツドヘはしばらく虫のようにそこに小さく丸くちぢかんで過ごしていた。
 やがて窓越しの花の香りや雨の匂いに首をかたむけ、窓辺に来る鳥の声に耳をすましているようになった。その内に手探りで廊下や階段を移動するようになり、さまざまな薬草や木の実の香りがただよって来るスクナビコの大きなへやも気になるようで、ときどき訪ねて話をしていた。
 タカヒコネは彼と連れ立って、しばしば浜辺や森を歩いた。ヌナカワヒメやスクナビコと相談しても彼の目を治す方法は見つからなかったが、ツドヘはとうにあきらめているのか、がっかりした様子はなかった。
 もう枯れ草になりかけているが、それでも日差しを浴びて暖かい、川のほとりの草地に座って、長いことぽつぽつと彼はオオナムチと呼ばれていたころのオオクニヌシの思い出を話した。貧弱な手足や弱々しい声は、オオクニヌシとまるでちがうのに、座りなおすしぐさや、あることばの抑揚などが、はっとするほど似ていて、タカヒコネはどきりとすることがあった。彼はタカヒコネの話も聞きたがった。オオクニヌシが最初はそんなに立派に見えなかったと言うと、「ああ、そうなのかなあ」と首をかしげた。「そういうところもあるからなあ」。実は今でもそうなんですと言うと、ツドヘは笑って、「君がどんな男か見たい」と言った。「さわってもいいですよ」と言うと、遠慮がちに髪や肩にふれて、何だか楽しそうにしていた。
 時々うっかりタカヒコネはツドヘに「あの派手な色の鳥」だの「あのすごい波の色」などと言ってしまってへどもどし、あわてて口を閉じてしまう。するとツドヘはなぐさめるように、「ちゃんとわかるからいい」と言った。「何ひとつ見えなくなっても、することは意外とあるもんだな」と、ある日彼はひとりごちた。
 ミヅハはあいかわらず、ほとんど毎日やって来て、いろんなことを教えたり聞きたがったりした。窓にはりついたクシマトにはすっかり夢中になり、危ないから近寄るなといくら注意してもするすると表面を動き回る目玉や唇から目をはなさず、にらめっこしたり、口に食べ物を入れてやっては「食べたよ」と喜んでいた。「心配ないじゃろ、草やら土やら虫やらを適当に食べておるようじゃし」とスクナビコが言うので、そのままにしたが、うす赤い舌のようなものがぺろぺろ唇をなめていたりするのは、さすがにちょっとうんざりした。
     ※
 雪のせいか、今日はミヅハも来ないし、ツドヘとスクナビコはへやで話しこんでいる。スセリがタカヒコネのへやで手仕事をすることになって、クシマトも興味があるのか、目玉を集めてながめていたので、タカヒコネは毛皮の帽子をかぶって外に出た。
 今日はイナヒの姿もない。雪の中で狩りのまねごとでもしているのだろう。森の方では子どもたちの遊んでいるらしい声がしたが、浜辺の方には人影もなく、灰色がかった波だけがゆるやかに寄せては返していた。
 その波と同じ青みがかった灰色の影が一つ、波打ち際をこちらへ歩いてくるのに気づいてタカヒコネは目をこらした。
 荷物ひとつ持たず、髪も乱れて肩に広がり、心なしか少しよろめきながら歩いている。
 次の瞬間まるでけもののような叫び声をあげて、タカヒコネの足は砂をけった。
 薄く積もった雪に足をとられてつんのめりそうになりながら、空を飛ぶような勢いで影に向かって突進した。
 影がとまった。陽焼けした、ひげだらけの顔が笑い、迎えるように両手が大きく左右に開かれた。
 まっしぐらにタカヒコネはその胸に飛びこみ、相手は後ろによろめいた。倒れそうになりながら、からくも足を踏みしめて若者をしっかり抱きとめた。
 「父さん!」タカヒコネは声にならない声をあげた。「父さん! 父さん! ああ、父さん!」
 オオクニヌシは笑い出した。「帰って来ると言ったろう?」
 「でも、でも、大丈夫なんですか?」すかすかにやせて軽くなっている身体と、落ちくぼんだ目と、こけたほおに、たちまち気づいたタカヒコネは、今度はみるみる顔をくもらせた。「まさか病気? それとも取り返しのつかない何か…」
 「まったく、おまえじゃあるまいし」オオクニヌシは首をふった。「疲れてるだけさ。ただ、ひどい旅だった。家に連れて帰ってくれ。とりあえず、ひと眠りしたい」
 早く帰りたいのと父をいたわりたいのと両方のあせりから、タカヒコネは夢中で口もきかないまま、父を支えて必死で歩いた。家の前で、かけ出して来たスセリとスクナビコの手を借りて、安心したのか、なかばもううとうとしているオオクニヌシを三人はタカヒコネのへやに運びこみ、寝台に横たえ一息ついた。眠りに落ちる前にオオクニヌシは目を閉じたまま、「もうこの村は大丈夫だ」と誰にともなくはっきり言った。「もう心配はいらない。何も気にしなくていい」
 そしてそのまま、眠りこんでしまった。(つづく)

Twitter Facebook
カツジ猫