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水の王子・「岬まで」30

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 「ヤノハハキは文字通り、水を得た魚のようだったよ」オオクニヌシは言った。
 「生き生きとして、まるで何十歳も若返って行くようだった。ああ、それでつながる、ああ、それでわかる、と言いながら、聞いている間にもう指が、抑えきれないように、ひざの上で動いて、躍っていた。これで私はこの町についての絵巻物を完全にしあげられる! そう叫んで昼間は王宮の仕事が忙しいのに、夜はあかあかと灯をともして、ものすごい勢いでがたんぴしゃんとんからりんと機を織って織って織りまくっていた。それをまだ出来上がっていないのに見せてもらったのはフカブチだけで、これがまた、彼はそれで、みるみる元気になって行ったんだ。昔はなかったしなやかさや奥深さのようなものさえ、どこかにただよわせていた。私を殺す場面、母のいなくなった館から父の王宮に来る場面、すべて織り出されていたらしい。だが、それが古傷をえぐり出される苦痛よりも、なぜか安らぎと生きる力を与えてくれる。フカブチはそう言っていた。自分はこんなに醜いし、この町はここまで汚れている。それを目の当たりにしたら、だからこそ、生きて行ける。そんな力が身体の底からわいて来るようだった。そう彼は言った」
 「恐いけど、見てみたいな、その絵巻物」コトシロヌシが指を組み合わせてクシマトの目が散らばった窓の方に目をやった。
 「この村の絵巻物を彼女が織ったら、どうなるんだろう」タカヒコネが首をかしげてつぶやく。
 「おまえもなかなか、とんでもないことを考えるな」オオクニヌシが感心した。
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 「ああ、それはそうと」コトシロヌシが言い出した。「ヤノハハキの夫のヤシマが、ナキサワメの家にいるって父上はご存じでしたか?」
 「いや全然」オオクニヌシが目を見張る。「それはいったい、いつからだ?」
 「私も昨日、ヒルコとハヤオに聞いたんです。森に行ったら、オオヤマツミ夫婦の小屋に、おとなしそうな感じのいい男がいて、いろんな仕事を手伝ってくれていたって」
 「そんなこと言ってたっけ?」タカヒコネが言う。
 「君はオオクニヌシの目をさまさせるとか心配して、二人を速攻追い返しちゃったじゃないか。ろくに話も聞かないでさ」コトシロヌシが言い返す。「まあそれはいいけど、とにかくその男は、なかなか素性を明かさなかったけど、ようやく教えてくれたことでは、自分はヤノハハキの夫で王族だったんだけど、妻が昔のことをいろいろ聞くのにどうしても答えられなくて、それが苦しくて城を出て旅をして回ってたんだとか。でも、妻のことは恋しがっていて、帰りたいみたいだったそうですよ」
 「ヤシマは聡明で穏やかな男だった」オオクニヌシはうなずいた。「だが、人や回りを傷つけたくなくて、嘘がつけないだけに何も見まい聞くまいとするようなところもあった。フヌヅヌの王宮で彼はきっと、できるだけのことにいそしみながら、つらい日を過ごしていたのにちがいない」
 「ヤノハハキは彼のことを忘れていないんでしょうか」
 「もちろんだ。フカブチとの話の中でも、夫のことが出てくると、それはなつかしそうで悲しそうで、ずっと帰りを待ちつづけているのがよくわかった」オオクニヌシは興奮を押し隠すように天井を見上げた。「彼が戻って来てくれたらいいのだがな。誰もがどんなに喜ぶかしれない」
 「すぐに森に使いを出しましょう」コトシロヌシが立って、出て行きかけた。
 オオクニヌシが、その腕をつかんだ。「そうと決まれば急ぐことはない」彼は二人の若者を両側から自分の胸に引き寄せた。「二人とも、もう少しここにこうしていてくれないか」
 半分後ろ向きに引き倒されたコトシロヌシは、こんな扱いになれてないので少しもがいたが、何とか父の方を向いた。二人の顔をかわるがわるに見つめてオオクニヌシは、心をこめて暖かく言った。「心配させたな、二人とも」
 二人はくすぐったそうに身じろぎしたが、逃げ出そうとはしなかった。クシマトの透き通った表面を、丸い目がいくつもするする動き回っている。「おかげで私は、自分の昔と兄弟たちを取り戻せたよ」オオクニヌシはゆっくり言った。
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 「でも、フヌヅヌとオミヅヌにはお会いになれなかったのですよね」コトシロヌシがつぶやいた。
 「私は必ずウカノミタマを見つけ出す」なぐさめるようにオオクニヌシはコトシロヌシの背中をたたいた。「フトミミに会って、死んだフハノのことも話す。彼らの最後までの日々のことをできるだけ聞いて、知る。約束するよ」
 「あの、父さん」タカヒコネが小声で言った。「それならひとつお願いが」
 「何だね?」
 「今でなくてもいいんだけど、これからときどき、彼らの話を聞かせて下さい。たとえウカノが見つからなくても、父さんが覚えている小さいころのことでもいいから、フヌヅヌとオミヅヌの、いろんなことを。多分つまらない人たちで、そんなに面白い話もためになる話もないのかもしれないけど、それでもやっぱり、どんな人たちだったのか、聞いておきたい。どんなことでも。何もかもです」
 「ああ、わかった」オオクニヌシはタカヒコネの頭を強く抱きしめた。「そうしよう。そうしような」(つづく)

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カツジ猫